かくれんぼ


ディトリッシュは主命によりターブルロンドの十字路エプヴァンタイユに滞在していた。
かの地を収める領主リュシアンは齢にして十。
親を恋しがる年頃にありながら、シジェルの門を潜った両親に代わり、重責を担う立場となった。
主命は王女の名代として領主のご機嫌伺いをせよとのことであるが、
そう形式ばったものではなく、天涯孤独の身である十歳の少年の話し相手として派遣された。

何故自分に白羽の矢が立ったのか、命令を受けた当初はディトリッシュは疑問に思った。
何をどう取り繕うとも、自分は闇の者。比較的ロザーンジュは闇の者への偏見が薄いと肌で感じていたが、
何処へ行こうが風当りが厳しいことには変わりない。
フィーリアを除いた領主から好意的に出迎えられたことは一度たりとも無かった。
だがその疑問は、命を受けるに当たり執政官から説明を受け氷解した。

この地の小さな領主は物語が好きなのだ。
善良でありながら悲しい運命を背負った勇者が、様々な冒険を経て魔王を倒す物語が。
つまりは子供らしい好奇心。おとぎ話の登場人物があたかも絵本から飛び出してきたような人物。
人と闇の合いの子である己には確かに適任だとディトリッシュは話を聞いて納得した。
しかし、ディトリッシュは子供の相手などついぞしたことがない。
さりとて自身の幼少の頃の思い出をなぞることなど出来ようもない。

さてどうしたものか、と門を前にして考え込んでいると、
背後から人の気配が近づいていることに気が付いた。
足音を潜めているわけでもなく、ましてや殺気があるわけでもない。
ただ剣と鞘がぶつかる特徴的な金属音が段々と近づいていることが気になった。
この領主の騎士であろうか。

彼は何度も瞬きする。それだけ目の前の光景が信じられなかった。
あどけなく小柄な少年がばつの悪そうに曖昧な笑みを浮かべて立っている。
緑を基調とした旅装で、性が分化する前の中性的な顔立ちを隠すようにつばの広い帽子を被っていた。
騎士になりたての少年らしく、新芽のような初々しさが体全体からにじみ出ていた。
余程気の荒い騎士でなければつい頬が緩んでしまうだろう。
しかしディトリッシュは常の怜悧な瞳にさらなる鋭さを加え少年と対峙した。
目前の小柄な騎士はディトリッシュの視線から逃れようと、目深に帽子を被り直す。

まだ気付かれていないとでも思っているのだろうか。
瞳の色もほのかな香水の匂いも、どこか控えめな歩き方も、全てが王城にいるはずの方と重なる。
感覚の鋭い闇の者でなくとも、女性の挙動に詳しい多少目端の利く者ならば気が付くだろう。
ディトリッシュは軽く咳払いをする。踵を返しかけていた騎士はびくりと肩を跳ね上げる。

「ごきげんよう。随分な遠出ですが供の者はどちらに」

悪戯がばれた幼子のように少年は肩を竦める。
相手の機嫌を窺うように笑みを浮かべる姿は、領主の前で凛とするあの方と同一人物だとは到底思えない。
ロザーンジュの主が好奇心旺盛で、その気質が高じて悪戯や冒険にしばしば走ることは、
配下の騎士の間ではよく知られている。
少年――見た目は少年そのものであるが、はディトリッシュの主フィーリアに他ならなかった。

「僕はフィーユ。エクレール様の護衛をしているんだ」

フィーリアは稚気に富んだ笑みでそう答えた。
このような場合、騎士は己の名誉にかけて主を諌めなければならない。
しかし、ディトリッシュには厳しい顔を保つことなど到底できず、
あろうことか思わず笑みが零れてしまうのを止められなかった。
フィーリアはほっと胸をなでおろす。

叱られるとでも思っていたのか。さらにおかしな気分になる。
ディトリッシュにその気は毛頭無い。
いつも仕方のない人だと嘆息しながら、結局は彼女の肩を持ち執政官と対立してしまう。
人の怒りや苛立ちを溶かしてしまう才能のようなものがこの王女にはある。
誰もが厳格に、心を鬼にして、と言い聞かせながらも、いつの間にか甘やかしてしまうのだ。
今回も叱るのは自分の役目ではないと、執政官に丸投げすることに決めた。
もっとも、そのようなことをせずとも彼女は己の過ちに気づくだろうが。

「ではフィーユ。君を侍女殿の元まで送ろう。いいね?」

「…はい。ごめんなさい…」

思わず頭を撫でてしまいたくなるが、市井の少年の格好をしようともフィーリアは王女であり主だ。
いくら気安い王女だからと云って、分を越えて振る舞うのはディトリッシュの望むところではない。
血迷ったことをと、己を叱責し手を引っ込める。
配下から侮られているという評判がたつことは騎士を束ねる王としては致命的だ。
代わりに尋ねる。領主の屋敷は目と鼻の先。どこに耳目があるかは知れたものではない為、
出来る限り声を潜めた。

「殿下。何故、こちらへいらっしゃったのです?」

宿への道すがら、闇の者と騎士の少年という取り合わせで歩く。
奇異の目で見られることはさすがに避けられなかった。
ただ視線が集まるのはやはりディトリッシュである。
浮世離れした美貌と特徴的に尖った耳が、彼を闇の眷属と知らしめた。
だがそれが隠れ蓑となり、傍らの少年の素性が何であるのか関心を寄せる者はいなかった。
隣にいる小柄な少年が、まさかこの国の王女であるとは誰も思いもしないだろう。

「サンミリオンの帰りでね。少し羽を伸ばしてきたらって、エクレールが気遣ってくれたの。
でもまさかあなたと出くわすなんて思わなかったわ」

それがわかっていたら同じ変装は使わなかった、とうそぶく。
かつて一度だけディトリッシュの前で同じ格好をしたことがある。
他の騎士や侍女たちには見破られなかったそれが、
ただ一度目を合わせただけで見破られてしまったのは記憶に新しい。

「それは申し訳ないことをいたしました」

「今からでも見なかったふりをしてみたらどうかしら」

「それはなりません。お一人での行動は慎んで頂かなければ」

「冗談よ。困らせてしまってごめんなさいね」

フィーリアはどこか寂しげに笑った。少し胸が痛む。
この少女にとって、心の赴くまま自由に出歩くというささやかな楽しみですら満足に味わえないのだ。
ディトリッシュの主は齢十五のまだ少女である。王女であることを除けば心根は普通の少女に思えた。
先ごろ父を亡くし、兄が失踪してしまい、寄る辺を失くしてしまった哀れな少女だ。
しかし、そう思っていたのはほんの僅かな期間だけでしかなく、
主であるフィーリアはディトリッシュに女の強さを考えさせる最も身近な存在となっていた。

「ねえ、リュシアン君とはもうお話しできたかしら」

「いいえ。取り次ぎを頼む前に殿下とお会いいたしましたから」

あら、とフィーリアはばつの悪そうな顔をする。
謝られる前にディトリッシュは言葉を繋いだ。

「よろしければエプヴァンタイユ公のことをお聞かせ願えませんか。
正直申しますと私も子供の相手は不慣れでして、糸口を掴みあぐねておりますれば」

フィーリアは首を傾げる。深く被っていた帽子が傾いた方向にずれた。
一つ一つ噛みしめるように思考を紡いでいく。

「そうね…。大人のように見えて子供で、でも子供だけれど大人のようで…。
緊張しているけど気安いところもあるし…ええと、何を言っているのかしら私は…。
何だか全然役に立てないみたい。弁論術はしっかり習っているのに…」

肩を落とすフィーリアを不謹慎ながらも可愛らしいと思ってしまう。
本人は大真面目なのだから実際に口にしたら、頬を膨らませて拗ねるかもしれない。
ディトリッシュは柔らかい笑みを見せる。

「いいえ。確かに個人の為人を言い表すのは難しいもの。
それが複雑な立場におられる方ならばなおのことでしょう。無理を申しました」

「これがヴィンフリートだったら、さあ知力の鍛練ですって息を巻くところね。
ディトリッシュはエクレールの次に私に甘いわ」

嬉しいからいいけれど。
何気なく放たれた王女の言葉は思いの外ディトリッシュの心を浮きだたせる。
フィーリアは愛らしい王女だ。少女らしく純粋で好奇心旺盛で恐れを知らなかった。
また王女らしく聡明で勇敢で誇り高く気まぐれでもあり、
そして誰からも愛された娘らしく、悪意よりも善意を、悪徳よりも正義を、憎悪よりも愛を好んだ。

フィーリアの前では、どれほど知勇にすぐれた騎士であろうとも、
海千山千越えてきた狡猾な領主であろうとも、誰も等しくただの男に戻ってしまう。
ディトリッシュもふと自身が闇の眷属であることを忘れてしまう時がある。
あれほど親しげに微笑まれて抗えるはずも無かろう、とその都度己に言い訳した。

「でも今回甘やかすのはリュシアン君だけよ。
私わかるの。きっとリュシアン君は誰かと目一杯遊びたいのよ。
リュシアン君と同じくらいの時は私もそうだったから――」

フィーリアは何かを思いついたように、はっと瞠目する。
呼びかけても上の空で、無防備なほどに自分の思考に耽っていた。
ちょうどフィーリアたちが滞在している宿屋に付いたところで、
ディトリッシュは敢えて追及しなかった。

「それでは殿下。良い一日を」

「ねえ、ディトリッシュ」

目を爛々と輝かせたフィーリアが不意にディトリッシュの袖を掴む。
何事かと足を止めると、すぐ近くにフィーリアの青い瞳が迫っていた。
思わず息を呑む。何と美しい青だろう。

「かくれんぼは好き?」

唐突に投げかけられた質問に戸惑いながらも素直に答える。

「申し訳ございませんが、私はそうした子供らしい遊びをした経験が無い故に、
好きか嫌いかをお答えすることができません」

今度はフィーリアが驚く番だった。
ただの一度も、と問いを重ねる。ディトリッシュは複雑な心地で頷いた。
騎士となりフィーリアに仕えてからというもの、己のいた環境がどれほど異常であったのか思い知らされる。
物質的な不自由を味わったことがないのは幸福だと言えるかもしれないが、
たとえこの先どれほど困窮しようとも、父のいるあの城に戻るつもりは無い。

「殿下はお好きですか?」

黙ってしまったフィーリアへ助け舟を出す。

「…ええ、私は好きよ。最後にやったのは、うんと昔だけど。
エクレールが鬼になって私とアストラッドが隠れるんだけれど、いつも見つかってしまうの。
私の隠れる場所ってわかりやすいんですって。そんなに単純なのかしら、私って」

「エクレール殿は殿下のことがお好きだからですよ」

そういうものかしら、とフィーリアは首を傾げる。大きめの帽子がまたずれた。
ディトリッシュは断りを入れて、さりげなく帽子を直す。
フィーリアはしばらく考え込むような動作をすると、無邪気な顔でディトリッシュに尋ねた。

「ディトリッシュはわかるかしら。私がどんな場所に隠れていたのか」

何と答えればよいのだろうか。ディトリッシュは悩んだ。
先の己の言葉を踏まえての質問であるならば、フィーリアの掌で弄ばれてるも同義だ。
それとも、常と同じく先走った好奇心によるものであるのか。
フィーリアの表情を見ていると前者であるとは考えにくかった。
まるで自分一人だけ意識しているようで、ひどく羞恥を覚える。
こんなことを考えるのは己が未熟であるからだと一方的に自分の所為にするが、
肝心の答えは探しあぐねていた。ディトリッシュは迷った末、普通に答えることにした。

「さて…。人気の少ない書庫や物置でしょうか」

楽しげにフィーリアは微笑む。どうも自分の答えは間違っていたようだ。
ディトリッシュは直感的にそう感じる。事実フィーリアは首を横に振った。
しかし肝心の答えを教えられる前に、宿屋からエクレールが現れて会話を中断させた。

「まあディトリッシュ殿。お勤めご苦労様ですわ。
で、フィーユが一緒にいるということは……あらまあ姫様捕まってしまわれたんですね」

ただ一人の王女が単身で歩いていたら保護しないわけにはいかない。
エクレールも歯痒く思っているだろうが、ディトリッシュの立場を慮ってか文句は言わなかった。

「でも、代わりにディトリッシュとお話しできたから。とっても良い息抜きになったわ。
ありがとう、二人とも。ディトリッシュ、邪魔してごめんなさいね」

「いいえ。殿下のお心が晴れれば幸いです。お二人はいつお発ちに?」

エクレールは明日にでもと答える。
そうですかと強いて平坦に返すものの心の隅で落胆する。
任務が終われば、ゆっくりと話すこともできただろう。
自分が護衛として付けば、時間の許す限り自由に歩き回ることも叶うだろうに。

「それでは道中お気を付け下さい。殿下、私の方こそ楽しい時間をありがとうございます」

「またイシュメールの城で会いましょう。その時は―」

フィーリアは何か言いかけて止める。
ディトリッシュは瞳で問いかけるものの、曖昧に微笑まれて終わってしまった。



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