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「随分と気に入られているようだな」

父は閉ざしていた瞳を開けた。血の色をした瞳が露わになる。
気だるげな声は変わらない。自分の生まれる前からずっと退廃的な倦怠感を纏っていたと聞いた。
何をしに来たのか、と問うのは止めた。まともな答えは返って来ないことはわかっている。

「用が無いのであれば、これで失礼させていただきます」

周囲に人の気配は無い。
朽ちかけた四阿の影でディトリッシュは父親と言葉を交わす。

「そう、急くな」

先王の崩御にも興味を示さず、城に籠っていた男が今更何用か。
この男が人の世に出現する意味を、人間たちは等しく理解している。
気紛れに戦を起こし、羊を奪う狼が如く領地を掠め盗っていく悪魔――。
音に聞こえた佳人、勇猛で名高い騎士の前に姿を現したかと思えば、下僕として侍らす魔王。
この男の出現は災厄の始まりであった。

「貴方の気まぐれに付き合っている暇はありません」

「哀れな王女を慰めにいくか」

人間たちに黒貴族と呼ばれる男は喉の奥で笑う。
ディトリッシュは踵を返しかけていたところで、男に向き直った。
怒り、と諦めが胸の内を覆っていく。最早何も言うまい、とずっと昔に諦めていた。
が、受け入れられるはずもない。悲しみは不快感として表層に浮き出る。

「つまらぬ小娘だ。意志も無く、大河に流される木の葉のように脆弱な人間だ。
それが、分不相応にも玉座を狙うか。滑稽でならぬ」

あなたがそれをいうのか――。

刹那、柄に手がかかる。
衝動的な怒りに似た感情がディトリッシュの体を駆け巡った。
しかし、剣は抜き放たれなかった。柄に置かれた手には、別の手が置かれている。
僅かばかりにこの男が動いただけで、殺意は押し止められてしまったのだ。
この男にとっては軽く触れているだけに過ぎないというのに――。
黒貴族は気分を害した様子も無く、穏やかに語りかけた。

「愛しの王女の庭を汚すつもりか?」

「……お放しください」

すうっと頭が冷えていく。無駄だ。何をしても無駄だ。
肉親に対する諦観は、感情と云うものを根こそぎ奪っていく。
昔からずっとそうだった。目の前にある赤い瞳から逃れようと視線を逸らした。

「お前が私に剣を抜こうとするのは何年ぶりだ。どれ――」

透き通った白銀色の髪が鼻先をくすぐったかと思うと、首筋に鋭い痛みが走った。
牙を突き立てらたと感じた瞬間、目眩と虚脱感が襲う。
ディトリッシュは抵抗ではなく耐えることを選んだ。身じろぎせず嵐が過ぎ去るのを待った。

息子だからと言って好き勝手にしてくれる――。
しばらくして興味を失くした玩具を放り投げるかのように離された。
だが目眩は続いていた。また随分と血を奪ってくれたものだ。
壁に体を預け、血の味に満足した父と対峙する。

「短き間にかくも深みを増し醸造されたか」

「…渇きは、癒えましたか」

愚問だ。父の渇きは永遠に癒えることは無い。
既に求めることを放棄して久しく、紛らわす術ばかりに長けてしまった哀れな男だ。

「お前の渇きは癒えておらぬようだな。吸血鬼が何故血を拒む」

「――私は人間です」

この男の元を離れることを決めた時から、人として生きることを決めた。
戯れに殺さず、不当に奪わず、騙らず、弱者を労わり、強きに屈さず――、
生まれを変えられないのならば、せめて正しく、自由に生きようと思った。
男の赤い瞳を正面から見据える。哀れみと蔑みの色。男は諭すように語る。

「あくまで吸血鬼の性を否定するか。哀れな息子よ。
弱者と群れ、騎士の真似事をして楽しいか? 血を恵んでもらう見返りに忠節を誓い、
己の居場所を確保した気になって、これを哀れと言わず何と言えばよい?」

「何とでも仰って下さい。
今の私は殿下に仕える騎士、貴方の指図は受けません。
私は、己の意志で選び、自由な心で生きます。闇の中で生きるつもりは無い」

男は喉の奥を震わせる。
息子が足掻いているのがそれほど滑稽に思えるのか。
闇に染まりきれず、人間としても半端な生き物を生み出したのは貴方であろうに。

「我らは闇だ。だが、ならば人間は光か? そうではなかろう。
知らぬふりをするとは止めろ。人間ほど己の欲望に忠実で、臆病な生き物はおらぬ。
フィーリアを見るがよい。あの赤子のような娘を」

フィーリアの名前を口にされると酷く心をかき乱される。
生贄の名を読み上げられたかのような心地だ。

「お前を随分と気に入っているようだが、あれは、ただ己の庇護者が欲しいだけだ。
何せ、愛情や忠誠をふりかざし、己を意のままに操ろうとする者に幼い頃から囲まれ、
ようやく手に入れかけた玉座すら滑り落ちて悪意を向けられる始末。誰かに縋りたくもなろう」

「知ったようなことを……」

「別段、お前でなくとも良かったのだ。ただお前が手近だったからに過ぎない
庇護と愛情が得られるのならば、あれは何でもするだろうさ。
それこそ、吸血鬼に血を渡すことも――」

刹那、雷光走る。空気が震えた。
剣閃。二振りの剣が同時に抜かれる。耳をつんざくような金属音。
火花を散らし、二人が離れた。

「血を失ってなおその気迫か。面白い。主を侮辱されただけではあるまい」

「かように人を弄び、心を失くした貴様は災厄そのものだ!」

気力はそこまで、剣を落とし、ディトリッシュは膝をつく。
血の気を失った顔を、目の前の男への怒りと、体がままならぬことへの苛立ちに歪め、
尚も剣に手を伸ばそうとする。

「じっとしていろ。苦しかろうに」

一転して男の声が労わりに満ちる。
己の剣を収めると、地面に横たわったもう一振りをディトリッシュに渡した。

「お前も随分と面白い男になった。嬉しいぞ、ディトリッシュ」

身の内を支配していた怒りが萎み、力が抜ける。
こんな言葉で、こんな些細な言葉に心が満たされるのを抑えられない。
所詮は気紛れで、偶然言葉を発したオウムに称賛の言葉を与えたようなものだというのに。

「今日の所は大人しく帰るとしよう。面白いものが見られた礼だ。
だが心しておけ。王女の心は風見鶏のように容易く翻弄される。
いつまでもお前を愛して傍に置いておくとも限らぬということだ。
お前にもわかっているだろう。ただ知らぬふりをして無為に時を過ごすか? お前は何を望む?」

望み、私の望みなど―――。
不意に襲ってくる渇きが雑音のように思考を阻害する。
貴方の苦しみを癒したい、私ができることならば何だってする、と言った人の
首筋はばかり見ていた。青白い肌に薄らと血管が透けて見えた。目が離せなかった。

「私は、貴方のようにはならない……!」

何と空々しい言葉だろう。
内心を見透かしたように、目の前の男はより一層哀れみを込めて語りかける。

「それがフィーリアの為だ。
騎士王とは似ても似つかぬ脆弱さだが、愚かしいほど善良で愛を欲しがる可愛らしい子だ。
あの娘が願うのならば、苦しみから解放してやってもよいくらいだ。
健勝にな、我が息子。私の気が変わらぬうちに己が心に問いかけてみるがよい」

フィーリアによろしく、と言い残し黒貴族は消えた。
風化が著しい長椅子にもたれかかる。立ち上がろうにも足に力が入らない。
じっとりとした汗が浮かび、速まった動悸に翻弄されるままだ。

(変わらない人だ――)

懐かしさを伴わず、怒りが引いた後は悲しさばかりが募る。
ディトリッシュにとって黒貴族とは太陽のような存在だった。
直視すれば身を焼かれ、闇の者にとっては恵みや慈悲とは程遠い存在。
ただ恐ろしく眩い男。それが闇の王など、皮肉な話だ。

かの男の情は一時の気まぐれで見せる、日蝕の影のようなものだった。
たとえ一時であろうとも父は優しかった。
全てを見通すと称される瞳は、慈父のような温かみを感じさせた。
それ故に、日が翳った時は突き落される。
どれほどの者が惑い、苦悩したことか。縋りついた手を踏みにじられたことか。

それでも親だった。ただ一人残された肉親だったのだ。
血を分けた息子にだけは違う、特別に扱われると思いたかった。
けれどもある日気づいてしまった。己も踏みにじられた一人であることに。

(フィーリア――…)

素性を偽り、騎士王の裔と見えたのはいかなる理由があってのことか。
会わなければ。何をおいても黒貴族から遠ざけなければならない。
注進しなければ。あの男の正体と目的を――。
会わなければ。早く。会いたい。会って血を。

「……っ」

手の甲に爪を立てる。痛みと共に血が滲み出で、夢中で貪る。
気休めにすらならなかった。だが痛みが渇きを微かに凌駕したのは幸いだった。
渇きに支配されていた思考が晴れ、常の感覚が徐々に戻ってくる。
ふと、気配が一つ近づいてきていることに気が付いた。
こんな場所に誰が。余計な詮索をされぬ前にこちらから誰何するべきか迷った直後、
何とフィーリアの声が聞こえてきた。

「殿下……?」

「…! そこにいるのね…!」

足をもつらせてフィーリアは現れる。供も連れず一人だった。
力無く座り込んでいるディトリッシュを見るや、痛ましげな表情をして傍らに跪く。

「苦しいのね。さあ、誰も見ていないから――」

まるでそれが当たり前であるかのように袖を捲る。
夢にまで見た白い肌が露わになる。

「ごめんなさい。借りるわね」

鞘から僅かに抜き出した剣に指を滑らせる。止める間もなかった。
指の腹に一筋の線が入り、赤く染まる。抗えるはずも無く華奢な腕を掴んだ。

「申し訳ありません…」

「いいのよ」

許しを得て、白い指を食む。
血の味が口内に広がり、身の内で暴れていた渇きが徐々に鎮まっていく。
これで三度目だ。フィーリアから血を分けて貰うのも。いつも彼女の顔が見られなかった。
先ほどの父の言葉が蘇る。これは好意ではなく下心から来る餌だと。
ディトリッシュは唇を離した。

「もう、いいの?」

「ええ。ありがとうございます」

フィーリアは潤んだ瞳で見上げてくる。
気遣わしげな色が見て取れ、内心で心から安堵した。
渇きも癒えたところで、改めてフィーリアの様子を窺う。周囲に侍女の気配は無い。

「私をお探しでしたか? 御用があれば私の方からお伺いいたしますのに」

フィーリアは黙したまま首を横に振った。
怪訝に思いながら返事を待っていると、傷ついた方の手を掴まれる。
一言も発することなく、フィーリアはハンカチで傷を覆った。

「怪我を、したの?」

「大したことはありません」

それよりも、と黒貴族のことを伝えようと口を開きかける。
しかし、胸に飛び込んできた軽い衝撃に機会は失われることになる。

「殿下……?」

息を呑む。言葉が続かなかった。
胸の中に飛び込んできたフィーリアは、唇を震わせて縋るような瞳を向ける。

「私ね、もう駄目なの。駄目になってしまったの」

濡れた瞳が別の飢えを湧き立たせる。
意味を成さない言葉の羅列は必死に自分の存在を訴える幼子のようだった。
けれども、瞳も唇も、指や首、肌のそれも全てが滑稽であるほどに女だった。
動悸が苦しさに代わり、紛らわすように掌に爪を立てた。

「落ち着いてください。どうかなさったのですか」

半ば自分に言い聞かせる。柔らかく抱き、流れる髪に沿って背中を撫でた。
ディトリッシュに出来ることは他に無かった。
フィーリアの様子は尋常ではない。以前、酷く取り乱した時と同じだった。

「お願い、一人にしないで。愛しているの」

自分はどんな表情をしていたのだろう。体の震えをフィーリアが抱きしめた。




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