8


ノワールと名乗る男との謁見は波乱の幕開けだった。
彼の者こそ、祭りの夜に出会い、ダンスを踊った男だった。

彼は、やはり人間ではなかった。
黒貴族の所領、マンハイムで領地を拝領している貴族だと名乗った。
つまりは闇の者だ。黒貴族の名前が出ただけで俄かに周囲は色めきたった。
彼はそのどよめきを楽しむかのように笑っていた。
微かに唇が弧を描いていたのをフィーリアは見てしまった。

傲慢、侮り、愉悦。
あの日の夜に見た父の面影は、夢幻のように消えてしまっていた。
やはりあれは自分の勘違いだったのか、その時は思った。

ノワールは何をするでもなく、来た時と同じように唐突に去って行った。
ただお顔を拝見したかった、と贈り物を残して。
ドレスや宝石、たとえ権門の娘であろうとも手の出せない珍しい品を惜しげもなく献上した。
そして、靴も。ドレスにそぐわぬ無骨で飾り気のない旅人の履く長靴であった。

年頃の娘好みのきらびやかな品々の中に一つだけ異彩を放つ長靴は、様々な憶測を呼んだ。
エクレールは、何故ドレスと揃えないどころか下々の者が身に付ける長靴を贈ったのかと首を傾げ、
ヴィンフリートは闇の者の意図するところを何とかして汲み取ろうとしていた。
城の中で、正しく意味を理解したのはフィーリアだけだった。

(覚えていてくれたのね)

軽い驚きと、先の冷たい印象を払拭する暖かさで満たされた。
周囲の目があり、私的な言葉は交わせず、型式的な謝意を述べただけなのが悔やまれた。

(それにしても、どうして私に…?)

マンハイムで領地を賜った貴族。つまりは、黒貴族の臣下。
こうして現れたということは、祭りの日の夜のことは偶然や気紛れではなかったのだろう。
彼はそうと知っていて、少年の姿の王女に声を掛けたのだ。
命令、謀略、悪い想像は無尽蔵に湧いてくる。
しかしあの黒貴族が、玉座すら取り上げられかけている王女にそんな回りくどい真似をするだろうか。
殺すのならばいつでも殺せたはず。下僕にして王権を奪おうというのならば、もっと早くやっていたはず。

(気紛れ、だから?)

気紛れで子供のように残酷。そう評したのは息子であるディトリッシュであった。
剣の誓約の際にディトリッシュを寄こしたのも、その気紛れだったようだ。
今、再び配下の者を送ったのもやはり気まぐれなのだろうか。
フィーリアは自室で贈られた品を広げながら、物思いに耽る。

幾重にもドレープのあるドレスは風に揺れる夏の新緑のようだった。
透き通った泉のような青い宝石は、お召しのドレスとよく似合うとエクレールが喜んでいた。
海を渡った大陸にしかいない動物の毛皮で作られた外套。
よくもまあこれほど気前よくやってしまったものだ、とヴィンフリートが呆れるほどであった。

どちらかと言えば質素な身なりであった父王に合せて、母も兄も贅を凝らすことは無かった。
毎年どこかで飢饉や戦争が起こっていた所為で、栄華を享受する暇も無かったのだ。
姫様が玉座につかれた暁には、一流の仕立て屋に最高級のドレスを作らせましょうね、と
王の試練が始まった当初はそうやってエクレールが励ましてくれたものだ。

やはり年頃の娘である上にそうした幼い頃の境遇もあって、憧れが無いわけではなかった。
が、ドレスよりも今は手元にある飾り気のない長靴の方に心が惹かれる。
新品のそれをぎゅうと抱え込む。まるで宝物のように。

「姫様、よろしいですか? 執政官殿がお見えですよ」

慌てて靴をベッドの下に隠す。
名目上は献上品の検分、決して宝物の山に酔う為ではない。
居住まいを正し、どうぞとヴィンフリートを促す。

「不審な点はございましたか」

ヴィンフリートは目録にざっと目を通しながら尋ねた。

「いいえ。何もおかしな所は無かったわ」

「後で衣裳部屋に片付けさせましょう。呪いや魔法の類で攻められれば我々の手には負えません。
ゆめゆめご用心なさってください」

ならば売ってしまってはどうか、というのも通らない。
金に困っているのは事実なのだが、下々の者が家財を質に入れるのとはわけが違う。
殿方が大切にする面子と云うものを、王家はより大切にしなければならないらしい。
王侯貴族は高貴に飢えなければならなぬというのが先人の教えだが、
飢えを知らない私たちが言っても、空言でしかないのではないかとフィーリアは思う。

「彼が居れば何らかの手段を講じることも出来たでしょうが。ままならないものです」

「でも、今日帰って来るのでしょう?」

「ええ、今朝城に着いたとの報告がございました」

「まあ心強いですわ。良かったですわね姫様」

彼が帰ってきた。フィーリアは逸る心を抑えて静かに相槌を打つ。
フィーリアの心情を代弁するかのようにカナリアが歌声を響かせる。
貴方も会いたいのねと心中で語りかけた。

「明日にでも相談してみましょう。ディトリッシュならば面識があるかもしれないわ」

「そのことなのですが、殿下」

怜悧な執政官の表情が微かに変化した。眉間に皺を寄せたのはほんの一瞬のことだったが、
実の兄弟よりも密な時間を過ごしてきたのだから、何を考えているかもすぐにわかった。
自身の不安な感情を隠しながら、無意識に他者へ緊張を強いる表情をするのは、
あまり愉快ではない話題を口にする時だ。

「今、城は予期せぬ闇の者の来訪で不安が広まっています。
このような状況下で、殿下がディトリッシュ殿を召喚したとなれば、
徒に不安を煽ることになり、いらぬ風説も生むことになるでしょう。ここは私に一任して頂けませんか。
殿下は騒ぎが落ち着くまで、彼との接触を控えた方がよろしいかと存じます」

進言は命令に聞こえた。
騎士が主に忠誠を誓うことを歓迎こそすれ忌避するつもりは無い。
しかし、分を越えた交わりは如何なものか。フィーリアにはそう諌めているようだった。

「それはそうかもしれませんけど、相変わらず冷たい物言いですこと」

君は黙っていてくれ、とヴィンフリートは視線で制す。

「差し出がましいことを申し上げますが、殿下は王になられる方です。
騎士の一人への隔たった寵愛は、嫉妬と不和を招き、専横の走りとなることもございます。
ここは、一時ご自重下さいますようお願い申し上げます」

嫌よ。

そう告げることが出来ればどれほどいいか。既に城で噂になっていることは知っている。
姫様はあの美しくも恐ろしい闇の貴公子殿にご執心なのだと。
それはまずい私は騎士王の裔なのだし、王の試練の最中で、私は王様にならなければならないので、
ヴィンフリートもエクレールも困って。

「ええ…そうね。そうだわ……」

「この件は私にご一任ください。殿下はお心を安んじ下さいますよう」

本当にありがたいわ、これほどに忠義を尽くしてくれる臣下がいるなんて、素晴らしいわ、
聖騎士の末裔は本当に慎み深く智に長けて王家を助けてくれる第一の臣なのよ。
本当に本当にほんとうに安らかな時を過ごせたと思えたことなんて。

「一度だってないわ」

言った。言ってしまった。ずっと胸に沈んでいた重石をぶつけてしまった。

「殿下?」

「ヴィンフリート。私、お父様のお気持ちが今なら少しわかる気がするの」

嫌だ。嫌だったら嫌だ。

「お父様は長らく一人だったのね。お母様を失くして――いいえ、お二人はご夫婦だけれど、
本当に心が通じ合っていたのかさえ定かではないわ。実の子たちとも縁遠く、臣下は面従腹背で、
どれほど心細くても、どれほど辛くても、常に王様でなければならなかったのよ。
そうして、病み疲れて、一人で死んでしまわれたのね。お可哀想なお父様」

「殿下、私には殿下の仰っている意味が――」

「そうやって、私も一人で死んでいくのでしょう?」

陶器のぶつかり合う音。そしてエクレールの息を呑む声。
絨毯に零れた紅茶が広がっていく。

「そんな…! そんなことありませんわ!」

エクレールに向かって微笑みかける。感謝の意味を込めて。
この状況で笑えたことに我ながら驚いた。侍女も目を瞠ってフィーリアを見つめていた。
視線を忠実な侍女から執政官の方に戻す。それから彼女を顧みることは無かった。

「今も一人、玉座で長らえても一人、どうせ一人で死んでいくのならばいつ死んでもいいとは思わない?
どこにも行けないのならば、ずっと心を凍らせて生きていくのならば、死んでいるのと変わりない、
そう思わない? ヴィンフリート。私はずっとそう思っていたわ」

ヴィンフリートは愕然とした表情で言葉を失くしている。
おかしいわね、とフィーリアは怪訝な表情で首を傾げる。
想像の中の彼は、もっと厳しい顔をして、王家の息女たる貴女が何と言う情けない物言いか、と、
目を吊り上げて叱っていたのだから。どうして驚いているのだろう、どうして怯えた顔をしているのだろう。

「大丈夫よ。貴方はとても優秀な方だから、誰が王様になってもきっと目に止まるわ。
小父様も口では文句ばかり仰っているけれど、本当は貴方をとても誇らしく思っているのよ。
エクレールだって王家の姫君なのだから、小父様はきっと保護してくださるわ」

重石が無くなり心が軽くなると、不思議と笑顔が零れてくる。
いつ以来だろう。ヴィンフリートの前でこれほど自然に笑うことが出来たのは。

「そんな…私はそんなことの為に姫様にお仕えしているわけじゃ…」

ああエクレールが悲しんでいる。
勿論わかっている、と頷き、貴女の心は嬉しく思っていると伝えるた。
けれども、心の中は形容し難い高揚感で満たされ、今も泉のように尽きることなく湧き出てくる。
そう言えば、私はエクレールを否定したことは無かったし、エクレールも私を否定したことは無かった。
喧嘩なんて一度もしたことは無かった。ぶつかり合うなんて考えたことも無かった。

「…かようなまでにお悩みであったことに、気づくことが出来ず、誠に申し訳ございません…。
ですが、正当な王家の血を引かれる方が、そのようなことを仰られては、民も嘆き悲しみましょう。
私が至らぬばかりに――」

「死にたいわけじゃないのよ? ただお願いがあるだけなの」

宥める様に微笑む。軽い、心が軽い。飛んで行ってしまいそうなほど。
彼は怯んでいるように見えた。可笑しいかしら、私は可笑しなことを言っているのかしら。
可笑しなことを言って何か悪いのかしら。
気弱な王女の初めての反逆は彼の目にどう映ったのだろうか。

「私から彼を奪わないで。愛しているのよ」

「姫様……」

再び絶句する。
こうしている間も気持ちは一つ。愛しい人に会いたい。ただそれだけだった。
執政官は目に見えて狼狽した。実の母親が危篤となった時も落ち着き払っていた男が。
フィーリアには、ヴィンフリートが取り乱した理由がわからなかった。
過去の故事を引き合いに出して、厳しい口調で諌めるのだとばかり思っていた。
結局、乳兄弟の口から出た言葉は酷く月並みな物だった。

「ディトリッシュ殿は黒貴族の子息、闇の者、です…」

「彼が誰であっても、黒貴族その人であっても、愛していることに変わりは無いわ」

血を求める行為さえも愛おしく思っている。
妻が夫の為に髪を売るのも、息子が老いた父の代わりに兵士になるのも、
その根源は同じところにあるのだと思う。
しかし、ヴィンフリートにはこの理屈は異様なものとして聞こえたようだ。
憤りと呆れが混在した表情で首を横に振った。

「貴女は、貴女と云う方は、何と云うことを仰るのです……!」

「ヴィンフリートは私に何を望んでいるの? 私はただの小娘でしかないの。
騎士王様でも、聖騎士でもないでしょう? 貴方の足元にも及ばない、ひ弱で愚かな小娘なの。
ご先祖様の加護も奇跡の力も何も持っていないわ」

そう、私は騎士王ではない。
自らの拠って立つ唯一のものを否定することは、思った以上に呆気ないものだった。
禁忌でも何でも無かったのだ。英雄の子孫は所詮ただ人でしかない。
そうでなければ、ここまで国政は混乱を極めなかっただろう。子供でもわかる理屈だ。

「お気を確かに…! 貴女はこの国で最も尊い方。冠を戴くべき方なのです。
ターブルロンド百年の未来が貴女に掛かっています。
外患に悩まされ、内憂を抱え分裂の危険をはらんだ国をまとめるのは、
ただ一人の騎士王の裔である貴女にしかできないのです…!
血筋を次代に繋げ、父君が残した国の繁栄を図ることこそ我らの勤めではありませんか!」

フィーリアは首を傾げた。この状況下でするにはあまりにも幼い仕草。
けれども、愛らしく、無垢で、思わず見入ってしまいそうなほど透明な瞳。
しかし次の言葉で二人は再び絶句することになる。

「世継ぎとなる男子を生め、ということ?」

「そうではありません!」

「でも、貴方やこの国の人たちはそれを望んでいるわ。エクレールもそうよね?」

それしかできないもの。仕方ないわよね。
王女は笑みをこぼす。誰も、何も、言えなかった。


「貴方が用意してくれた婿にかしずいて、冠を渡す繋ぎとして勤めを果たせばいいのね?
それをすると約束すればいいの? そうすれば、ディトリッシュの傍に居させてくれる?」



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