7
不思議な人。
かの人の印象はそれだった。
どこかに自分を見ている目がある。
もう祭りを楽しむ気にはなれない。かと言って城に戻るのはもっと嫌だった。
きっと今こうしていることも、後には二人に報告される。二人は嘆くに違いない。
王女殿下ともあろうお方が下々と同じものをお食べになるとは。
申し訳ございません姫様。私がもっとお教えするべきでしたわ。
そんな言葉は聞きたくない。
自分の心に従ってしたことが過ちだったと決められたくなかった。
二人は心から自分の為にしてくれているのだろう。
フィーリアと云う王女が生きていくには王となる他ない。
どこに誰の目があるかもわからない中で、
付け入る隙をみすみす敵に与えないように守ろうとしてくれているのだ。
だから何も間違っていない。間違っていないのだ。
(間違いがあったとすれば……)
もっと周囲に気を配っていれば。
そもそも街にでることそのものが間違っていたのだ。
エクレールの好意に甘えず、断っていれば良かったのだ。
疲れた。
呟きは喧騒の中では掻き消されてしまう。
フィーリアは石段に座り込んだ。傍らを子供たちが興奮した面持ちで通り過ぎていく。
今度は野外劇場で、騎士王の事跡を追った劇を行うらしい。
再び人通りが激しくなっていく。
フィーリアは帽子を目深にかぶり直す。
周囲の景色が消えると、一人の世界に入ったような気がした。
何処へも行きたくない。何処へも行けない。足が動かない。
消えてしまいたい。
どのくらいそうしていただろうか。いつの間にかすっかり日が傾いていた。
家路につく人々の姿が見え、家々に灯りがともる。街路にも松明や協会の灯りが入り込む。
一年で一番明るい夜、それが今まさに訪れようとしていた。
若い男女は手に手を取り合い広場へと向かう。
既に音楽が鳴らされ、ダンスの始まりを告げている。
広場へ行かない者たちは、物陰や茂みで早くも事を始めようとする。
中には所構わず愛し合う者たちさえもいた。
目の前で、絡み合った男女が唇を吸い合っているのを見て固まる。
ようやく周囲の状況に気づき、冷たくなっていた心にさっと熱が差し込まれ、慌てだした。
男の肩越しに女の方と目が合い、嫣然と微笑まれる。
外なのに、人がいるのは分かっているのに――!
一瞬で顔が熱くなり、逃げるようにしてその場を走り去った。
少しでも暗い場所へ行くと、そうした男女が何組もいる。
泣きそうになりながら夜道を走り抜け、広場に駆け込む。
目の前が昼間のように明るくなった。華やかな飾り付けと中央の櫓にともる炎が目に入る。
楽団と思しき集団が中央で楽器を奏で、
様々な身分の男女が音に合わせて体を揺らしている。
誰も酒に酔った風に陶然として、一日の終わりを名残惜しげに迎えているようだった。
幻想的な光景だった。裏道に入れば生臭い現実が嫌というほど見えるというのに。
心地よい音楽を聞きながら、隅で手持無沙汰でその光景を眺めている。
今頃配下の騎士たちも意中の相手と踊っているのだろうか。
噂好きの侍女たちも、今日ばかりは自分が主役になって恋人と共に過ごしているのだろうか。
(綺麗ね…)
少しだけ心が慰められる。社交界でのダンスとは違い決められたステップは無い。
粗雑で洗練も何も無い、下々の者の為の踊り。
しかし何故か胸を打つ。飾りを排し、ただ踊る相手を見つめるだけでいい。
城の踊りとは何もかもが違う。
華やかな社交界は試練の場であった。服装から所作に至るまで全てに作法が存在する。
踊った相手と恋が始まるなど、物語の中でしか知らない。
新しい夜会服の仮縫いが始まるたびに、隠れて溜息を吐いていたものだ。
けれども、こうした踊りならば。
(無理よね。男の子の格好だもの)
それに踊りたい相手もいない。
今頃城で別の貴婦人のお相手をしているかもしれない。
その想像は思いの外フィーリアの胸を締め付けた。
(この曲が終わったら帰ろう)
魔法の時間はお終い。
帰ったら、ヴィンフリートに謝って、エクレールに礼を言おう。
そうして、今日この日を過ごすことが出来たことを騎士王に感謝して眠ろう。
曲が終わった。
フィーリアが踵を返しかけた時だった。
「一曲踊って貰えないかな」
不思議な人だった。
まるでおとぎ話の中からそのまま出てきたような人。
飾りのついた帽子に黒の外套。古典的な狼の飾りボタンが袖に縫い付けられている。
襟の形も見たことが無い。当世の装束では無い。まるで演劇の衣装のよう。
(仮装、なのかしら?)
男は見上げるように背が高く、帽子の先から銀色の髪が流水のように流れ出ている。
微かに香るのは薔薇のそれ。帽子の下の顔は――驚いたことに、息を呑むほど美しかった。
男は精緻な彫刻のように整った唇を笑みの形に変える。
「私が相手ではご不満かな」
「あ、あの…僕は男、ですけど…」
「如何な装束で欺こうとも、私の目は誤魔化されぬよ」
「何を…?」
「嫌とは言わせぬよ。可愛らしいお嬢さん」
また別の意味で息を呑む。心臓を掴まれたような感覚がフィーリアを襲う。
何故子守唄のように優しい声音が、死を命じられているかのような冷酷な響きに聞こえるのか。
ぞわぞわと這いずるような恐怖が皮膚の下を蠢いている。
逃げることも、声を出すことも出来ない。
ああ、この人は私の命を簡単に奪うことが出来る。
蟻を踏みつけるような心地で、それこそ赤子の手を捻るように。
怖い。このままこの人に殺されてしまうのだろうか。
「踊るだけだ。取って食ったりはせんよ。安心したまえ」
怯えた瞳を向けるフィーリアに男は軽く肩を竦め微笑んでみせる。
それが余りにも自然な仕草で、肩の力が抜ける。
同時に男の纏っていた暴君のような冷酷さが消えた。
まるで呪縛が解けたかのように体が軽くなる。男の声はまるで魔法だった。
おいで、と手を差し伸べられる。誘われるまま男の手を取った。
音楽が始まる。
中央に躍り出て、男のリードに身を任せた。
唐突に現れた奇矯な組み合わせに周囲の視線が集まる。
傍目からは男同士が躍っているように見えるのだろう。
恥ずかしくなり、軽く目を伏せる。
「気にすることは無い。私だけを見ていればいい」
「…は、はい」
不思議な人だ。声も瞳も驚くほど優しい。
先ほど感じていた恐怖は嘘のように消えてしまっている。
繋がれた手は夏だというのに石のように冷たいが、どこか柔らかい。
怯えさせないように意識しているのが伝わってくる。
曲も半ばを過ぎる頃になると、恐怖もすっかり上書きされていた。
すると、見計らったように男の方から話しかけてきた。
「ところで、君は何故男の格好をしているのだね?」
「それは、家の事情で……」
「継嗣となる男子がいない、と云ったところか」
どきりとする。当たらずとも遠からずだ。
動揺を悟られまいと、男の視線から顔を背けた。
「ああ、無粋なことを言ってしまったな。すまない。詮索するつもりは無い」
「その、貴方は……」
何を言えばいいのか。男は笑みをたたえたままフィーリアの言葉を待っている。
あ、と声にならない声を上げる。
(お父様に、似ているかも)
年齢は元より、労苦の刻まれた風貌の父と、
言葉を失うほどの美貌を持つ男とでは顔の造作において似ても似つかない。
ただ、どうしても父の記憶と重なる。
あれはいつだったか。兄の傍らで、作法通りの挨拶が出来なかった時、
羞恥心で押し黙ってしまったフィーリアを、じっと待っていてくれた父と同じ笑みだ。
「貴方は…どちらからいらしたのですか?」
「そうだね。君にとっては、少し遠い場所だ。
君が惹かれる物は無いだろうね。特に面白味のない所だよ」
「それは、歩いて行けない場所ですか?」
「行くには馬が必要だ。場合によっては剣や鎧も」
だが、と男はフィーリアをじっと見つめる。
それでようやく気が付いた。男の瞳は血のように赤い色をしていた。
それが紅玉のように妖しい光を放っている。人では無い――?
「君にはドレスの方が似合っているよ」
「…そうでしょうか」
しかし不思議と恐ろしくは無い。
恐ろしさで言えば、先の冷酷な殺意を孕んだ声音の方が余程恐ろしかった。
男の瞳は、血のようだと嫌悪を催す物ではなく、磨き上げられた宝石のようだった。
「君のようなお嬢さんは、ドレスや宝石に夢中になるのではないのかい?」
「私は、靴が欲しいです」
靴、と男は怪訝そうに聞き返す。
「新しい靴で遠いところまで行ってみたいんです」
男は軽く目を瞠ってフィーリアを見た。
おかしなことを言ってしまったかしら。恐々と次の言葉を待つ。
ふと、男は口元を緩めた。目を細め、懐かしむような風情の表情をする。
やはり記憶の中の父と似ていた。
「何処に行きたいんだい?」
声に促されるように、迷いも無く言葉が紡がれる。
「わかりません。でも自分で歩いて行ける場所ならどこでも良いんです」
「そうか。血は争えぬな」
「え?」
狙い澄ましたかのように音楽が止んだ。
同時に男の手がするりと離れる。
「魔法の時間は終わりだ。今日はもうお帰り」
「どうして私と――」
「騎士王の巡りあわせ、とでも言っておこうか。
さあ、行くんだ。迎えも来ているようだよ。
得体の知れぬ男と一緒に居たこと知れば、君の保護者はどう思うかな」
男の視線の先を追う。侍女姿の少女が人の波をかき分けている。
エクレールだ。気づいた瞬間に、ひやりと冷水を浴びせられた気分になる。
エクレールは落ち着かない様子で、しきりに辺りを見回していた。
心配して探しに来てくれたのだ。
(帰らないと)
名残惜しげな気持ちが一瞬で押し流される。
視界の端で黒い外套が翻る。慌てて振り返った時には影すらも残っていなかった。
人より一つ抜けた頭も、大仰な飾りのついた帽子も見当たらない。
あれほど目立つ格好をした男が忽然と消えてしまったのだ。
本当に不思議な人だった。
もしかしたら人ですらなかったのかもしれない。
誰も彼の姿を見ていなかったのだ。
エクレールは愚か、気配を絶ち護衛に徹していた密偵すらも。
聖誕祭が終わり、後始末に追われながら、フィーリアはあの日の夜のことをしきりに思い返していた。
手にした書状は招待を受けた領主からの礼状である。
城下の繁栄とを褒め称える内容だった。夕方からの市井の賑わいにも言及している。
下々の者までダンスに興じることが出来るのは殿下の治世の賜物だと。
フィーリアは書状を脇に置いた。ふう、と溜息を吐く。
たった一度踊っただけ。それだけのことで恋に落ちたなどと言うつもりは無い。
ただ思い出すたびに不思議な気分になる。
何かを忘れていたかのように。
昔大切にしていた人形を久しぶりに手に取った時とおなじもの。
古びた楽器を鳴らした時のような物寂しさが募る。
(あの人は、お父様じゃないのよ?)
自分に言い聞かせる。
朴訥とした父とは似ても似つかない華やかな若い男。
透き通るような銀色の髪と赤い瞳。
じっと見守る様は父や兄の様でいて、時折掠める侮りの色は値踏みする領主の様でもあった。
まるで万華鏡のようだった。流れるような表情の変化はフィーリアを不安に陥れた。
(夢だったのかもしれない)
けれども、男の残り香も石のように冷たい手も記憶に残っている。
「殿下、お休みの所を失礼します。入ってもよろしいでしょうか」
記憶の海に溺れかけた所を救い上げたのは怜悧な執政官の声だった。
フィーリアは居住まいを正し、書状を広げなおした。
「ええ。どうぞ」
折り目正しい返答と共に、ヴィンフリートが現れる。
不思議なことに、聖誕祭の日のことを咎められることは無かった。
忙殺されている執政官には、主の不品行を諌める余裕が無かっただけなのかもしれない。
よもや、という思いとともに用件を聞き出す。
「急ぎ署名を頂きたい書類がございまして」
既に十分な審議もされ、フィーリアも目を通している。
最終的な調整も済み、残るは王女のサインのみである。
フィーリアは手早くサインを済ます。
「お手を煩わせました」
「いいえ。後のことはお願いね」
どうやら他に用件は無いらしい。フィーリアは内心で安堵の息を吐く。
いつからだろうか。乳兄弟と顔を合わせるのに、これほどまでに緊張するようになったのは。
ヴィンフリートは来た時と同じように、折り目正しく礼をし退出していく。
そう言えば、最近政務以外での話をしていない。
(仕方ないわ。もう子供ではないし、責任のある立場ですもの)
ヴィンフリートには感謝してもしきれない。
実の父親と立場を異にしてまで尽くしてくれる彼に何の不満があろうか。
(――会いたいわ)
多忙なのは何も王女と執政官だけではない。
聖誕祭で騎士王への敬慕が高まったのを機と見て、各地へ工作へ出向いている。
城に居るのは常駐の騎士だけだった。
ディトリッシュと最後にゆっくり話ができたのは聖誕祭の時に留まる。
会いたい。会って話がしたい。聖誕祭の日、別れた後に何があったのか。
あの時の不思議な気持ちを聞いて貰いたい。
離れている間、喉は渇いていないだろうか。
また以前のように誰にも言えず苦しんでないだろうか。
血なんていくらでもあげる。だから早く戻って来て欲しい。
早く会いたい――。
程なくして、王女の愛しい騎士は帰還する。
同時に招かれざる客も訪れる。彼らは王女の与り知らぬ所で邂逅した。
それが運命の別れ道であったことは、誰も知らない。
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