6


一年の内で最も明るい夜。


聖誕祭の夜はそう呼ばれている。
昼の長さもさることながら、陽が落ちてからも街中から灯りが消えることは無い。
夜道はさながら昼間のように照らされ、この日ばかりは闇に怯えることは無い。

フィーリアは大通りに出た。人の波は絶えることが無い。
普段は馬車が何台もすれ違うことができる大きな道路だが、今は歩くたびに人とぶつかってしまう。
馬車も群衆をかき分けるわけにはいかず、隙間を縫うようにしてのっそりと動いている。
露店や辻芸人出くわすたびに足を止める為、人の流れも一様ではなかった。

(こんなに人が住んでいたんだ…)

改めて盛況さを驚く。普段はバルコニーで見下ろすばかりの街が全く別の場所に見えた。
エクレールに促されるまま、街へ出てきてしまった。
私に代わって祭りを楽しんできてください、と。憂鬱な気分が顔に出ていたのかもしれない。
それを聖誕祭への愛着と誤解してくれたのは幸運だった。

重いドレスを脱ぎ、兄の物である男物のシャツとズボンに着替えた。まるで別人になった気分だった。
帽子で顔を隠し、マントで体の線を覆ってしまえば、女であることもわからなくなってしまう。
面白かったのは、普段顔を合わせている使用人や門番すらも、騙しおおせてしまったことだ。
どこぞの従者かと思い込んで、誰も見咎めることは無かった。
悪戯をしている気分になり胸が高鳴った。

フィーリアは露店の一つを覗く。
東国の品だという弦楽器が目玉らしい。
弦が二本張ってあるのみで、これで曲が奏でられるのかと、首を傾げるばかりだった。
好奇心から手に取って確かめてみる。弦を指で弾こうとすると鋭い声で止められた。
坊や、お駄賃は貰ってるのかい、と商人に笑い交じりで揶揄される。

「あるけど、君の店では買わない」

あまり良い品ではなさそうだ。弦がたわんでしまっている。
少しリュートに似ているが、腹の部分に皮が張られ、大きさもまるで違う。
どこの国の物だろう。買う気は無いが何となく気を引かれる。

「おいおい、買わないなら触るもんじゃねえぜ」

「ああ、ごめん。気が向いたら買いに来るよ」

品を元あった場所に戻し、商人の機嫌が悪くならないうちに立ち去る。
フィーリアの去った場所をすぐさま別の若い娘が埋めた。
そう言えば、これくらいの年の男の子は楽器やアクセサリーに興味を持たないかもしれない。
つい、いつもと同じ感覚で見てしまった。
口調は上手く誤魔化せても、中身までは即興で作ることはできないということか。

こんな人ごみの中で正体がばれることはないだろうが、
男装していることを勘繰られるのもあまり良くない事態だと思う。
もう少し考えて行動しよう、とフィーリアは反省する。

それにしても、人の住む街というのは本当に面白い。
今まで鬱屈としていた気分が嘘のようだ。祭りの雰囲気も城の中とは全く違う。
慣習と伝統に支配された石の城に子供の居場所は無かった。
城の外では駄賃を握りしめた子供たちが露店の合間を駆けずり回っている。

そんな子供たちに交ざって、フィーリアは羊の串焼きを買う。
見様見真似で食べてみるが、ナイフとフォークを使わないで食べるのは少し難しかった。
かぶり付いた時に口元を汚してしまう。子供みたいで恥ずかしい――。
口を拭おうとすると、いつから見ていたのか、
エクレールくらいの年の女の人がハンカチを貸してくれた。

「あ、ありがとうございます」

「それ、差し上げます」

きゃあと声を上げて、引き止める間も無く去って行ってしまった。
もしかしないでもないけれども、彼女たちは好意を持ってくれたのだろうか。
侍女たちがする騎士たちへの反応とよく似ている。

(悪いことをしてしまったかしら?)

返すことはできそうもない。ハンカチを丁寧に折り畳み懐へ入れる。
それを期待していたのだとしたら、何だかとても悪いことをした気分になる。
フィーリアは逃げるようにしてその場を離れた。
さて、次はどこへ行こうか。

気の向くまま、喉が渇けば酒場へ、小腹が空いたら屋台へ、
芸人にはコインを。面白ければ割増し、陳腐であれば途中で立ち去る。
時には迷子の親を探し、時には異国人の道案内をする。
暑さで参ってしまった老人の介抱をする時もあった。
濡らしたハンカチを当てるだけで、彼は大仰に感謝を示した。

騎士様のお召ものを下賤の者の汗で汚しちまうなんて――。
これも騎士の務めです。気にしないでください。

そんな会話をした気がする。
ヴィンフリートが言うには、自分も騎士の範疇に入るようだから嘘は言っていない。
槍試合の訓練もさせられたことがある。試合の体裁を保てる程度の修練だった。
肩が外れそうなくらい重い槍も、息苦しい甲冑も全く好きになれなかった。
槍試合を好む騎士は数知れないが、正直彼らの気持ちが全く分からない。
それほど決着を付けたければ、フェンシングなりチェスなり身軽に勝負すればいいと思ってしまう。

そんなフィーリアの気持ちとは裏腹に、貴族も庶民も槍試合は大好きだ。
わあ、と遠くから歓声が聞こえる。野外に設置された槍試合の会場からだ。
大きなラッパの音に導かれるように、通りから人が一斉に外へ雪崩れ込んでいく。
フィーリアは人の波に抗い、通りに面した喫茶店へ入る。

「冷たいコクァール茶を」

空いている店内ではなく、通りが見えるテラスに座る。
さすがに少し疲れたかもしれない。朝からずっと歩き通しだった。
一度椅子に座ると、疲労を意識してしまう。それでも気分は萎まない。

(楽しいな)

コクァール茶を運んできた女給にも自然と笑顔になる。彼女も笑顔で返してくれた。
少し前までなら、こうやって一人で街を出歩くことが出来るなんて考えもしなかった。
憧れが無かったわけではなかったが恐れが勝っていた。
たとえ許されたとしても、泣きべそをかきながら城に逃げ込んでいただろう。

(本当に、別人になったみたい)

今なら、本当に冒険が出来るかもしれない。フィーリアは自分の想像に思わず笑ってしまう。
自分に出来ることと云えば、お稽古事のようなフェンシングだけだ。
武勇の誉れが無くとも、この国では弁舌の才が認められれば立身の道は開ける。
しかしフィーリアにはその才も無い。雛のさえずりだと揶揄されたこともあった。
それでも、自分の足で別の街へ旅することくらいなら出来るのではないか。
そんなささやかな夢を抱いてしまう。

(その足で小父様のいるポンパドゥール行ったら吃驚するかしら)

それとも嘆く? 叱る? 小父様は女が出しゃばることが好きではないかもしれない。
きっとそうだ。父王の親友はフィーリアが政治に関わることにも難色を示している。
彼にとっては、フィーリアが王になることと、政治を司ることは、重なっていないのだ。
世継ぎを生むことこそ先決で、表向きのことはヴィンフリートがすればいいと考えているのだろう。

少し気分が落ち込む。無性に悲しい気分だ。
この国に女王の存在を認めてくれる人がどれほどいるのか。

(止めよう…考えるのは…)

今更考えたって無意味だ。元から価値を認められていたわけではない。
王になれたからと言って、それが変わることも期待していない。
家族のように大切な二人と好きな人に認めて貰えさえすればそれだけで幸せなのだ。
暗い気持ちを振り払うようにコクァール茶を飲み干す。

「お勘定を――」

「こちらに座ってもよろしいですか」

言葉を遮られ振り返る。
夜の色の瞳と視線が重なる。思わず言葉を失った。
ディトリッシュ。声に出していたようで、はい、と常と変わらぬ口ぶりで返事があった。
返答が無いのを了承ととったのか、彼はフィーリアの正面に座った。

「ええと、何とお呼びすればいいのか」

戸惑いを露わに尋ねてくる。
フィーリアは自分がしている少年の装いが彼を困惑させてしまっていることに気づき、
頬を赤らめる。見られてしまった。気づかれてしまった。どうして。

「その、フィーユ、と呼んで頂ければ…」

「ではフィーユ、時間が許すのなら、少し話をしてもよいだろうか」

「はい……」

久しぶりに声を聞いたのに、ちっとも嬉しくない。視線に耐えられず俯く。
今はドレスも髪飾りも付けていない。飾り気のないベストとズボン、若い従者のそれだ。
とても恥ずかしい。他の顔見知りの騎士に会ってもこんな気持ちにはならなかったのに。

「責めるつもりは無いんだ。存分に羽を伸ばしてくれたらと思う」

窘められるかと思っていた。柔らかい口調に幾らか頭が冷静になる。
恐る恐る顔を上げると、彼は微笑んでいた。
少し気分が和らぐ。勇気を出して聞いてみた。

「どうして、わかったの?」

「よく似ていると思った。考え事をしている表情が特に」

「…ずっと見ていた?」

「通りがかりだよ。槍試合を身に行かなくてもいいのかい?
…ああ、純粋に貴賓席ではなく、フィーユとして観覧に行かなくても、という意味だ」

「訓練を思い出してしまうから…」

あまり行きたくない、と首を振ると、心得た風情で頷いてくれる。

「そうだね。無理に行く必要は無い。他にも楽しいことはあるのだから」

そう言うディトリッシュも試合会場ではなくここにいる。
ふと疑問に思った。

「貴方は、何をしていたの?」

「競馬に参加していた」

「どうだった?」

「勝ったさ。これしか能の無い男だ」

「すごい。おめでとう、僕も見たかった」

「ありがとう。君の祝福が一番嬉しいよ」

いつもと違った砕けた口調に鼓動が早くなるのを感じる。
合せてくれているだけとわかってはいるものの、より近しい間柄のように錯覚してしまう。
緊張もすっかり解ける。もっと話をしていたいと希望が頭をもたげてくる。

「祭りは楽しんでいるようだね」

「うん。楽しい。こうして周るのは初めてだから、何もかもが新鮮なんだ。
その…街の中で話すことも初めてだよね」

「ああ、そうして笑っている君は私にも新鮮に映る」

「…変?」

「まさか。こう言っては何だけれどよく似合っている。可愛らしい坊やそのものさ」

「…あまり、嬉しくない、かも…」

「すまない。気を悪くしないでくれ。その、活発に見えるということだ」

「喋り方はどう? その、お兄様の真似をしてみたのだけれど…」

「おかしくないですよ。無用な混乱を避ける為にもそのままでいいでしょう」

お互いに声を潜めて笑い合う。
こんな風に気安く話してくれるのならば、男装も悪くは無い。
恋心とは現金なものだ。先ほどまで、顔を上げるのすら躊躇っていたというのに。

「フィーユのこの後は?」

「今日一日、祭りを見物するつもり。貴方は?」

もし良かったら、と続ける前に、城に戻るつもりだということを伝えられる。

「警備を仰せつかっている。残念だが仕方が無い。君は私の分まで楽しんで来てくれ」

「…うん」

自分も戻るべきなのだろうか。ふと城のことが気になりだす。
どんなに言い訳を重ねても、義務を放棄して遊びに出てきてしまったことは事実だ。
配下である騎士が働いている中で、主君たる王女が遊び歩くなど、
宰相の耳に入ったりでもしたら、また何を言われるかわかったものではない。
けれども、いつまたこんな機会があるかどうかはわからない。はっきり言って名残惜しい。
どうしようか、と視線を泳がせる。

「フィーユ。君は私に気を遣うことはない。
君の心が少しでも軽くなるなら、執政官殿もお許し下さるだろう」

「…いいのかな?」

「今日一日くらい騎士王も許してくれるさ」

「うん。ありがとう」

「夜まで居るならば気を付けるといい。祭りで浮かれるのは何も善良な者たちばかりではない。
日が落ちた後は、人通りの少ない場所を歩いてはいけないよ」

(それほど子供ではないつもりだけど)

湧き上がってきたささやかな不満を抑えつつ、頷く。
現に今まで不審に思われることなく、見物客に混じって祭りを楽しむことが出来た。
災難に遭うことも、胡乱な風体の男たちに絡まれることも無かった。
それでもやはり信用されないものなのだろうか。少し悲しくなる。

「…ああ、そういうことか」

不意にディトリッシュは得心がいった風情で、周囲に視線を巡らせた。
首を傾げて何事かと尋ねると、ディトリッシュは僅かに躊躇った様子を見せる。

「いえ、さすがにお一人ではあまりにも無防備だと思っていたので、もしやと……。
案の定、気配を殺して護衛が付いて来ていました」

「え?」

フィーリアは一瞬、ディトリッシュが何を言っているのかわからなかった。

「闇の者の感覚にも気づかせないとは、中々の手練れのようです。
エクレール殿が安心して送り出せたのもこのお蔭でしたか」

エクレールが。いつの間にそんなことを?
ようやく忠実な侍女の懸念に思い至り、自分の置かれた状況を理解した。
巨大な重石のようなものが腹の底に沈んでいくのを感じる。
真っ白なテーブルクロスに一滴の黒いインクが落ち、それがどんどん広がっている感覚。

「…フィーユ?」

「ええ、そうよね。そうに決まっているわよね」

私は王女。この国でただひとり騎士王直系の裔。
父祖の守ってきた秩序と伝統を、損なわず受け継いでいくことが使命。
だからこの身は何よりも大切にしなければならない。

(全てはまやかしだったのね…)

護衛を付けるのは至極当然のこと。何故なら王女は弱いのだ。
槍試合も満足にこなせなければ、剣を振り回すことすらままならない。
一人では何もできない、どこへも行けはしない。
だから、予め石畳で舗装され、塵一つ無い掃き清められた道路を用意しなければならない。

何も間違っていない。

(嫌よ。そんなの…!)

「…殿下?」

目の前にはディトリッシュがいる。
フィーリアは自制心を総動員させて笑顔を作った。

「良かったわ。これで皆も安心できるわね」

「ええ、そうでしょうとも」

それから、どのようにディトリッシュと別れたのか覚えていない。
大きな失望がフィーリアを苛んだ。忘れていた無力感がとめどなく襲ってくる。
喧騒に交ざることも出来ず、当てもなく街を歩いた。



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