5


このまま時が止まれば良いと思うことがある。
もう半年もすれば、否応なしに運命が決まってしまう。
王になどなりたくない。さりとて己を利用することしか考えていない男の元に嫁ぐのも嫌だ。
自分を道具としてしか見ない男なんて。

人形の様な生だった。
望むことも望まれることも無く、ただそこに居るだけの存在。
血の繋がった家族にすら顧みられることなく、王女という一点のみで生きている自分。
そんな自分が大嫌いだった。

エクレールやヴィンフリートのことは好きだった。
何に代えても、自分のことを大切にしてくれる人たち。
けれどもそれは真心から出たものなのか。折に触れて疑問に思っていた。
貰える愛情を疑うことほど悲しいことは無い。
しかし頭ではいけないことだと分かっていても、感情は追いつかない。

何故なら私は血の繋がった家族からも気にされたことは無いから。

自分は王家に仕えている。―ヴィンフリートが常日頃から語っている。
自分は姫様に仕えている。―どうしてそこまでしてくれるのだろう。自分だって同じ王女なのに。

「姫様、いかがされました?」

春先の冷たい空気が青葉を揺らす爽やかな風となる。
テラスから見える庭は青々とした緑で覆われ、
昼は日に日に長くなり、夜の短さに季節の変わり目を実感する頃だった。
政務の合間、物思いに耽りながらエクレールが給仕してくれるのを何となく眺めていた。
何でもないと微笑むとエクレールはふにゃりと笑い返した。

(私は情の無い人間だわ)

こんなにも尽くしてくれるエクレールの愛情を疑っている。
ヴィンフリートも、昼夜を問わず政務に勤しんでくれているというのに。
臣下の忠誠を疑う王に王たる資格は無い。フィーリアは自分に言い聞かせる。

一人ぼっちになってしまった。そう思ったのは、兄が消えた時でも父が亡くなった時でもない。
初めて座った玉座で領主たちから即位に異を唱えられた時だった。
あれ以来、向けられた感情が落胆や失望に変わってしまうのを極度に恐れるようになった。

(私は王になれるのかしら…)

自領は前年よりも豊かになっていると云う。
全ては殿下のお力によるものとヴィンフリートなどは持ち上げるが、偶々気候に恵まれたに過ぎない。
それが分からないほど愚かではないと思うが、執政官としての彼はそうは思ってくれないらしい。
殿下のお耳を汚さない為、殿下のお心を安んじ奉る為、と余程のことでなければ全て内々で処理してしまう。
フィーリアが敢えて聞かなければ、具に報告はしてくれないのだ。
全てフィーリアの為になると信じている。

(私の為、なのかしら?)

彼がそう云うのならばそうなのだろう。
政治は難しい。それに辛い事ばかりだ。他人を疑って、陥れて、蹴落とさなければならない。
ただ民のことを考えて、道を舗装したり、飢饉に備えたりするだけのことではない。
その考えは甘いのだと言う。だからヴィンフリートは嫌なことを被ろうとしてくれている。
フィーリアもそれを望んでいると思い込んでいること以外は、その心根に感謝している。

ちくりと胸が痛んだ。
包帯の巻かれた腕で胸を抑える。
何を躊躇う、王女なのだから全て意に沿わせと命令すればいいではないか、と宰相は嘲笑うだろう。
フィーリアは内心で首を横に振る。政敵の幻に向かって貴方がそれを仰るのと反論する。
力の無い王女の命令を誰が聞いてくれるのか。それを証明したのも宰相だ。

表面上は聞いてくれるかもしれない。
恭しく頷いて、目の前でそうなるよう取り計らってくれるかもしれない。
けれどもそれが真に叶う時は果たして来るのだろうか。
“ふり”をするのも政治の一つと教わった。
ヴィンフリートの意に沿わない命令であれば、“ふり”だけで終わってしまうかもしれない。

疑いたくはないが、自分が乳兄弟よりも優れた政治家であるとは露ほども思っていない。
自分が正しいと思ったことが、彼にしてみれば愚の骨頂だということもあるだろう。
そして世の真理で照らし合わせてみれば、きっと彼が正しいということになる。

(そうなればきっと、私を傷つけないように……)

彼は“ふり”をするだろう。決して悟られることなく。
もしそうしていることを知ってしまえば、自分は二度と彼を信頼できなくなってしまう。
それが何よりも恐ろしかった。政治の世界で本当の本当に一人になってしまえば、
身も心も死んでしまうだろう。

(嫌ね……)

内心で溜息を吐く。最近、何に付けても気持ちが暗くなる。
時が進んでいることを自覚すると、身が竦んでしまうほど恐ろしい気持ちになった。

(早く戻ってきてくださらないかしら)

想い人は遠い地にいる。
聖誕祭までには帰還する予定である。そう長い時間ではないにもかかわらず、
何かにつけ何故彼を派遣してしまったのかと悔やむ。
このまま遠くへ行ってしまったら、と嫌な想像を振り払い、
せめて彼の望む主でいなければと己を律し、恋心との狭間でいつも揺れ動いている。

包帯に包まれた手を撫でる。
破片で切り裂かれた歪な傷は痕になるだろうと医者からは言われた。
エクレールは騎士王に慈悲を乞わんばかりに嘆いたが、フィーリアの心情は真逆だった。
不思議な歓喜が胸に満ちた。愛しい青年が触れ、舌を這わせた傷が残る――。

「姫様、痛みますか?」

ふとエクレールが覗き込んでくる。大丈夫、と笑みを作りさり気なく目を逸らす。
初めてエクレールに秘密を持ってしまった。
医務室でのこと。思い出すたびに顔が熱くなる。
子供のように泣きじゃくってしまったこともだが、それ以上に彼を誘惑してしまったことがだ。

誘惑、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、また顔が火照った。
彼を誑かそうなどと云う意志は微塵もない。けれども誘惑と云う他なかった。
肌を見せたわけでも、甘い声で囁いたわけでもない。
ただ、誘惑と云うのは殿方の理性を敢えて溶かそうと意図するものであると聞いた。
ならば自分のなしたことは誘惑に他ならない。

誘惑。

心の赴くままに、と血のつたう腕を差し出した。
目の色が変わったのが目に見えてわかった。
人間と吸血鬼の境目を一瞬にして飛び越え、獣のような眼差しを向けられた。
本能的な恐怖が呼び起こされる前に全身が痺れたような錯覚に襲われた。
常にディトリッシュを覆っている薄膜のような拒絶が消えていた。

それからずっと彼の飢えを満たしてあげた。


フィーリアは内心で煩悶する。
あの後、回復したディトリッシュは早々に城を発ってしまった。
ゆっくり話す間もなかった。それが幸運であったのかはよくわからない。
今は早く帰って来て欲しいという気持ちと、顔を合わせたくないという気持ちがせめぎ合っている。

「もうすぐ聖誕祭ですね」

青々と茂る葉の匂いを風が運んで来る。
透き通るような青空が見られる夏は好きだった。
仕立てている夏のドレスが仕上がる頃合いですわ、とエクレールは嬉々として語る。
政務の合間に行われた仮縫いは、煩わしく大変だったことしか覚えていない。
完成して袖を通せばまた違った感想が湧くのだろうか、と考えながら、口では楽しみねと同意する。

「今年も屋台がたくさんでるそうですよ? 辻占いや大道芸人、パレード、ああ楽しみですわ」

エクレールの楽しげな様子に自然と笑みが零れる。
正直なところフィーリアは純粋に楽しみとは感じられなかった。
準備や会場の設営、当日の警備などやらなければならないことは枚挙にいとまない。
それに加えて公式の行事や、他国の賓客を迎えること、式典の儀礼など、王女に課せられる務めが多すぎた。
新たに仕立てているドレスも式典用のそれだ。

これが大人になることだと、ヴィンフリートは語っていた。
そうなのだろうか。楽しいという気持ちを置き去りにして、義務ばかりに頭を悩ませることが。
乳兄弟の生真面目な顔を思い出す。彼はそうだと頷いていた。やはり、そうなのだろう。
楽しいと思う気持ちには鍵を掛けなければならない。

「支持を表明してくださった領主殿に招待状を出さなければならないわね」

「例年では、たくさんお土産を持ってきてくださるそうですわ。楽しみですわね」

そうね、とここでも同意する。
しかし内心は全く正反対だった。またここでも値踏みされなければならない。
市場の発展、当日の警備、式典が例年通り恙なく行われているか、全てが王女に対する才覚の判断材料なのだ。
また気が重くなる。物心つく前から、祭りなんて自由に楽しめたことは一度として無い。
フィーリアにとっての祭りとは窓枠という小さな舞台で行われる人形たちの乱痴気騒ぎだった。
まるで自分がただ一人だけの観客になったようでちっとも面白くなかった。
遠い喧騒を聞きながら、いつもと同じ部屋で幼馴染が持って来る土産話を羨ましげに聞いた。

「姫様にも羽を伸ばして頂ければいいのですけど」

「大変な時期だもの仕方が無いわ。エクレールが私の分まで楽しんできてね」

エクレールは複雑そうな顔をする。そっと顔を背け、窓の外に目を向ける。
城の外に出たことは数えるほどしかない。最近ようやくお忍びでの視察が許可されたばかりだった。
外は恐ろしいところなのだと乳母から教わった。病や飢え、貧困に犯罪。
卒倒しそうなほど不潔な場所から、身の毛のよだつ獣のような所業を平然と行う者もいると――。

(でもね……)

今は亡きヴィンフリートの母に語りかける。
それは城の中でも当たり前のように存在する。
偉大な先祖を誇らしげに戴き、我こそは地上に燦然と輝く星なのだと豪語する者にこそ、
この世の罪業を一身に集めた穢れそのもののような人間がいることを、既にフィーリアは知っている。
だからもう城の外を徒に恐れることは無かった。それどころかこんな想像までする。

もし城を追われたら? 身の着のままで市井に放り出されたらどうする?

頑是ない子供が英雄になったつもりで冒険を想像するのに似ている。
馬に跨って――淑女らしい横乗りではなく、どこまでも遠くへ行きたい。
誰も知らない場所へ着いたら、裸足で大地を駆け回りたい。

私に畑を耕すことができるかしら?
勇ましい商家のおかみさんのように売り子ができるかしら?
騎士の奥方のように夫が不在がちの家を取り仕切ることが出来る?

ささやかな空想遊びはいつも途中で終わる。
空想の中で隣に誰も居ないことが思いの外寂しくて、すぐに止めてしまう。
そしてふと気が付く。

(城を追われても一緒に居てくれる人なんて……)

恐らくいない。それが堪らなく寂しい。
王女でなければ、エクレールを守ることもヴィンフリートに望む地位を与えることも出来ない。
王女であることしか価値の無い自分が嫌いで仕方が無いのに、
王女であることしか取り柄の無い自分が悲しくて腹立たしい。

(でも王女であるから生き長らえて、あの人にも会えた)

一緒に居られるのならば何でもいい。
それこそ王女でなくとも、主従が逆転したとしてもだ。我ながら狂っていると思う。
誰が聞いても、恋に狂った女の浅はかさだと呆れるだろう。

「いかがされました? お疲れならば午後の政務はお休みなさっては?」

「いいえ。大丈夫よ。ありがとう」

愚かだとしても、もう一度フィーリアと呼んでほしい。
もう一度抱きしめて欲しかった。




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