4

渇き。

初めは思い出した様に。それが徐々に断続的に続くようになった。
自身の異変を自覚した時には渇きは理性までも侵食してくるようになっていた。

同時に、悪夢を見るようになる。
恐怖に顔を歪めた人間、血だまりに顔を浸す獣の姿、赤に染まる視界――。
姿形は変えど内容は変わらない。理性を失った自分が血を貪る姿。
そしてフィーリアがその血だまりの中に居る。

これは己の願望なのだろうか。
頑なに吸血鬼としての性を拒否しながら、
内心は愛しい少女の柔肌に牙を突き立てることを望んでいるのか。
渇きに苦しんでいた己に何の躊躇いもなく血を分けてくれたというのに。

フィーリアの血が忘れられない。
ほんの指先に流れる滴を舐めたに過ぎないというのに。
細い指先が唇に触れた瞬間、死んでもいいとさえ思った。



ふと目を開ける。数瞬遅れて知らぬベッドに寝かされていることに気がついた。
薬と消毒液の匂いが鼻につく。知れた匂いにここが医務室であると悟る。
疼痛がこめかみを襲う。またか、と酷く陰鬱な気分になる。

これで二度目だ。
昼間に目眩に襲われて目の前が暗くなったかと思うと、こうして医務室で横になっている。
外は明るい。ようやく日の光にも慣れてきたと思ったが、青空を見るだけで目が焼き付いたように痛い。
同時に、血の気の引いた青白い顔が窓に映った。不意に父の言葉が蘇る。
自分に似ていないと彼は冷淡に言い放った。父にしてみればただ単に感想を述べたに過ぎなかったが、
幼かった自分は深く傷ついた。まるで親と子の繋がりを否定されたかのように聞こえたのだ。

(確かに似ていないな…)

絶対的な力に裏打ちされた自信、その副産物である傲慢さと冷酷さ。
それが透けて見える薄笑いは子供心に不安を覚えた。今となってみれば似ずして幸いだ。
黙っていれば見映えはすると父親に評され、それ以上の感想は得られなかった面相だ。
半端者の自分には良く似合っている。父の様な華やかさはたとえ百年経っても持ち得ざるものだ。
自嘲する己の姿が窓に映る。やはり似ていない。情けない顔だ。

「っ…――」

誰か、と人を呼ぼうとして声が詰まる。
喉が痛い。酷く乾いている。枕元の水差しに手を伸ばす。
途端目眩がして手を滑らせる。水差しはディトリッシュの手から離れ床に落ちた。
ガラスの割れる音に思わず額に手を当てる。余計に頭痛が増したような気がした。

(限界なのかもしれない)

日に日に吸血衝動は大きくなっていく。
フィーリアの血の味が忘れられない。目を瞑ると白い指の感触がよみがえる。
吸血鬼の本性を見せながら、フィーリアは変わらず信を置いてくれているというのに。
また別の頭痛がディトリッシュを苛む。

フィーリア。知れば知るほど惹かれていた。それが忠誠と親愛に留まっている内はまだ良かった。
しかし人はまだ欲しい、もっと欲しいと手を伸ばす。
隙間の無いくらいに満たし、醜く膨れながらも、まだ足りないと叫ぶのが人の業だった。

もう終わりにしよう。

どれだけ人間のふりをしたとしても、人間になることはできない。
愛した人を餌と思うような男だけにはなりたくない。
そうなる前に城を辞すのだ。

フィーリア――。

「どうかしたの? 大きな音が聞こえたけれど…」

これは夢の続きだろうかと一瞬疑った。
起きている? という潜められた少女の声に胸が高まる。
返事をする前に飛び散ったガラス片に気づいたようで、はっと息を呑むような声が聞こえた。

「……申し訳ありません。手を滑らせまして」

半身を起こし、カーテンに手を伸ばしかけたところで、先にフィーリアが顔を出す。
フィーリアは気遣わしげに青白い顔の男を見る。

「気にしないで。それよりもお体の方は大丈夫かしら?」

「はい、少しばかり目眩がしただけです。ご心配おかけしました」

「良かった。倒れたと聞いたから。無理しないでね」

「ご足労頂き申し訳ございません」

本音を言うならば会いたくなかった。
これで倒れるのは二度目。悪夢は数知れず見ている。
ようやく、ここを離れる決心がついたというのに。
フィーリアの笑顔を見てしまうと、それが脆くも崩れ落ちてしまう。
ドレスの袖から覗く白い手が柔らかな枷のように思えた。

「顔色が悪いわ。もう少し休んで。ヴィンフリートには私の方から伝えておくから」

細い指が肩に触れたかと思うと、顔がすぐ目の前にあった。
ベッドから出ようとするのをやんわりと押し止められる。
睫毛の先や額に流れる金色の髪が具に見て取れる。

「代えのお水を貰ってくるわね」

踵を返そうとしたフィーリアを呼び止める。
最後に聞いておこうと思った。

「殿下は、何故かようなまでに良くしてくださるのでしょう」

「え?」

「血を分け与えて下さるまでに――」

こうしている間も喉が渇く。
フィーリアの、ドレスから覗く白い肌を見ないようにしていた。

「私に仕えて下さる騎士の方たちには、出来る限りのことをして差し上げたいの」

フィーリアはさりげなく目を逸らす。
それが建前でしかないことを自ずから語ってしまっていた。
悲しく思うと同時に苛立つ。ここまで心をかき乱しておきながら自身は心を隠すのかと

「この世には向けられる好意を利用する者など吐いて捨てるほどいます。
ましてや私は、黒貴族の息子ですよ」

「…貴方はそのような方ではないわ。貴方の誠実さも優しさも知っているもの。
それに、いつも私を助けて下さるわ」

「殿下に近付く為ならば、目的を問わず身を削って尽くす者も現れましょう。
貴女はただ一人の王家の末裔なのですから」

フィーリアは愕然とした表情をした。
酷く傷つけてしまった。思わず目を逸らす。

「…ディトリッシュも、そうなの?」

「いいえ。可能性の話です。主従は好悪のみの関係ではございません。
私の存在が殿下を利することもありましょう。
黒貴族のこと、闇の者の動向、お聞きしたかったのではないのですか?」

「私が、打算で、貴方に接していると…?」

(それでも――)

そうだとしても感謝している。たとえ懐柔が目的であろうとも。

「殿下はお優しい方です。殿下のお心を疑ったことはございません」

「嘘よ。なら、どうしてそんなことを仰るの?」

「…こんな日が来るとは思いもしませんでした。心よりお礼申し上げます」

人間が、血を求めた吸血鬼を受け入れるなど。(おぞましい力を知らないからだ)
自ら血を分け与えてくれるなど。(種族を越えた愛などと馬鹿げた夢物語を信じている)
しかし現実を突きつけられて尚、変わらない。(愛を得られなかった父親代わりにしているだけだ)

(フィーリアにしてみれば優しくしてくれる男ならば誰でも良かった―)

「いや、どうして…? 私に至らない所があったから意地悪を言うのね?」

「このような場でお伝えすることをお許しください。私は―」

「嫌よ。聞きたくない…。どうして? 今まで通りと約束してくださったじゃない」

ただ本心が知りたかった。しかし実のところはどうしたかったのか。
本当は己の内心を省みもしない少女を、憎らしく思ったのではないかと思う。
今まで築き上げてきた信頼を尽く破壊してしまいたくなるほどに。
しかし、肩を震わせ立ち尽くすフィーリアへこれ以上残酷なことは言えなかった。

「私が悪いのね。だからディトリッシュは嫌になってしまったのよね」

「殿下」

「充分に報いていないから? 貴方に酷いことを言う人がいるの?
お給金ならいくらだってあげるわ。嫌なことを言う人も皆追い出すから」

「そのようなことを、一騎士に過ぎない者に仰ってはなりません。
殿下に落ち度は何一つありません。私のことを惜しいと思って下さるならば善き王へとおなりください。
さすれば、私など比肩できぬほど人品共に優れた騎士が貴女の元に馳せ参じることでしょう。
過去に一時だけ仕えた騎士のことなど忘れてしまうほどに」

フィーリアはディトリッシュの言葉など耳に入っていなかった。
膝から崩れ落ち、臥せる男へ縋り付く。まるで瀕死の恋人にするかのように。
ディトリッシュは初めてフィーリアが尋常な様子ではないことに気が付いた。

「もっと血が欲しいの? だったらもっとあげる。私の血で良いなら全部あげるから」

「……何を―」

「どうして貴方までいなくなってしまうの……。嫌よ…」

遂には泣き出してしまう。
どれほど苦境に立たされても決して涙を流さなかった少女が。
驚きは困惑に、困惑は罪悪感へと流れるように変化していく。
嗚咽が医務室に響き、涙が点々とシーツに落ちた。

「お願いよ…一人にしないで…」

どうしていいかわからず、衝動的に泣いているフィーリアを抱きしめる。
主君や年頃の娘という意識よりかは、泣いている子供をと云った方が正しい。
幼い頃、父に素気無くされて泣いている時にして貰っていたことをしたに過ぎない。

「う、うう……」

腕の中に収めて背中を撫でると、余計に泣かせてしまった。
出て行く前に侍女か執政官に殺されるかもしれない、とディトリッシュは思った。
しばらくそうしていると、幾分か落ち着いたのかフィーリアの方から話しかけてきた。

「お願い。正直に、答えてね」

「はい」

「私のことが、き、嫌いになった?」

「いいえ。これほどまでに良くしてくださった方を嫌いになど」

「それなら、どうして……?」

「それは――」

「私は貴方が好きよ。打算なんかじゃない。
貴方はずっと優しかったわ。誰にも気にされなかった私のことを気に掛けてくれたわ。
貴方が誰であっても傍にいて欲しいの」

所々しゃくり上げながらフィーリアは訴える。ディトリッシュは確信した。
フィーリアの求める愛情は男女のそれではなく、子供が親に求めるそれでしかないのだ。
失望は確かにあった。だがそれでもいい。それでもいいと強く思った。

「フィーリア」

腕の中の少女が緊張した様に身を固くした。
最早隠しようもない。自分は、この少女を、フィーリアを愛している。
こんなことがあっていいのだろうか。黒貴族の息子が騎士王の裔に。

「私は、怖い。己の闇の部分が貴女を害してしまうのではないかと」

「私は怖くないわ。貴方が欲しいなら、分けてあげたい。
貴方が苦しんでいるのなんて見たくないもの。お願い傍にいて、ディトリッシュ」

「泣かないでフィーリア」

ディトリッシュは自分の声の甘さに驚いた。
顔を上げたフィーリアと目が合う。フィーリアは頬を染めて再び俯いてしまった。
戸惑っている内にするりと腕を抜けると、床に散らばったままのガラス片を拾った。

「証を見せるわ」

そう静かに告げると、親指の付け根から手首に掛けて一直線に引く。
止める間も無くフィーリアの手の平に赤い線が引かれた。
線に沿って点々と赤い滴が盛り上がり、やがては手のひらを流れていく。
官能的なまでの血の滴りに、ディトリッシュは思わず唾を飲み込んだ。

「嘘なんかじゃないわ。貴方が助けてくれたように私も貴方を助けたいの」

既にフィーリアの言葉は頭に入っていない。
血。血。あれほど、目の前に。フィーリアの、血。。
忘れかけていた渇きが頭をもたげ、濁流のように理性を押し流す。

拒否する。しない。人間、人、闇。違う私は人間。血が。
でも喉が渇く。苦しい。辛い。渇く。血。誰でもいい。よくない。
王女、主君、フィーリア。いけない。構わない。でも苦しい。

「さあ」

そこから先は覚えていない。
フィーリアが赤く染まった手を差し伸べたところまでは記憶にある。
気づいたら、仰臥してフィーリアの笑みを見上げていたのだ。
夢だったのか、と体を起こそうとした瞬間、フィーリアにやんわりと押し止められる。
強い既視感を覚えたが、フィーリアの腕には白い包帯が巻かれているのを認め、はっとした。
反射的にフィーリアの表情を窺う。

「何も心配はいらないわ。ゆっくりお休みになって」

言葉とは裏腹に余計に不安になる。肝心の記憶は靄がかかったかのように思い出せない。
ふと、あれほど理性を蝕んでいた渇きが消えていることに気がついた。
頭痛も無い。飲んでしまったのか。
ディトリッシュの疑問を肯定するかのようにフィーリアはやけに艶めいた笑みを浮かべている。
愕然とした気持ちと例えようのないほどの歓喜がせめぎ合う。

「水を、頂けますか」

フィーリアは給仕台の水差しから水を注ぐ。床に散らばっていた破片は一つとして無い。
だが決して夢ではない。喉を潤し、高鳴る心臓を抑える。

「何と申し上げればよいのか……」

「何も言わないで。私は貴方が傍にいてくれるだけでいいの」

「…ありがとうございます。
このディトリッシュ、これまで以上に……いえ、命を賭して殿下にお仕えすることを誓いましょう」

頷きながらも、フィーリアは複雑そうな様相を見せる。
主君の表情の意味を正しく理解していながらも、応えられる勇気はまだ無かった。





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