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同情、それと種族を越えて受け入れてくれたことへの恩義と感謝。
それに加えて、灯火の様な温もりに包まれた淡い感情が、忠誠心と呼ぶところの全てだった。
強制された忠誠ばかりを目にしてきた為、何が正しい形であるのかは知れない。
物語に出てくるような清々しい忠誠心は終ぞお目にかかったことは無い。
誰に仕えるか、誰に命を預けるかなど損得に左右されるものだが、
存外感情に拠るところも大きいとわかった。

敗色が濃厚の王女に付こうと思ったのだから、そうした傾向を持つ者が多いのかもしれない。
それとも、失う者が少ない遍歴の騎士だからこそそうした者が集まったのか。
こと忠誠心に関しては、敵視し合う種族の間にもさしたる違いはないように思えた。

フィーリアは変わらず心優しく穏やかな少女だった。
不慣れな政務にも積極的に関わって行き、素直な性格から誰の進言にも耳を貸し、
わからないことがあれば身分を気に掛けることなく助言を仰いだ。
王女はただ椅子に座ってにこやかに笑っていればいいと、
口さがの無い者も存在したが彼女は周囲の心無い言葉とよく戦った。

執政官も抜け目が無く、宰相と通じている者、忠誠心が薄い者は、
たとえ譜代の臣であろうともフィーリアの周囲から遠ざけた。
それができるほど有益な人材が集まって来たのだ。

ディトリッシュはよくフィーリアの相談に乗った。話をしていてわかった。
フィーリアは、剣の誓約の時に領主から不適格の烙印を押されたことが相当堪えていた。
時に逃げ腰、責任放棄ともとれる弱音をディトリッシュには吐いた。
しかし彼女にはわかっている。彼女が生を全うするには王となる他ない。
その為に執政官も侍女も、騎士たちも皆力を尽くしている。
だからフィーリアは心情を漏らした後、いつも心底申し訳なさそうに謝罪する。

それが心苦しかった。







「ディトリッシュ」

薔薇のアーチの前でフィーリアは彼女の忠実な騎士を見つけた。
初夏の薔薇は青天の下見事に咲き誇り、アーチを彩っている。
掌に収まるほどの大きさで控えめに咲く花は、庭園の主と被る。
棘が抜かれ、身を守る為の術を失ってしまったことも同じだった。

「庭園の薔薇も綺麗よ。ご覧になったらいかが」

「よろしいのですか」

「勿論。何だったらご一緒しましょう」

既に己が黒貴族の息子であることは知れているはずだ。他でもない自分が話したのだから。
しかしフィーリアは変わらなかった。変わらぬ笑顔と信頼を向けてくれる。
貴方が誰から生まれようとも、貴方を信じていることは変わらないと。
フィーリアが信じていると言えば、執政官も内心はどうあれ従わざるを得ない。
親衛騎士の肩書も、フィーリアの親愛の念も何一つ変わらないまま、季節は変わった。

「侍女殿をお待ちしましょう。置いていかれてはお可哀想ですよ」

無意識に線を引く。彼女の信頼は心から嬉しいと思っていた。
しかし人の噂と云うものは存外真実を射抜いているようで、
まことしやかに囁かれている己の素性の噂の中に“黒貴族の息子”というものが確かに存在していた。

これ以上、親しくするのは彼女の為にならない。

フィーリアの話を聞いている内に、彼女の弱さを受け止めている内に、
一層強く彼女を王にしなければならないと思った。
玉座と云う最も安全な場所に押し上げなければ平穏な一生は送れないと。
だから、闇の血を引く男と懇意にしているなどという付け入る隙を作ってはならない。
距離を置かなければならない。分を越えてはならないと己を戒めた。
しかしフィーリアはそんな決意も尽く無下にしていく。

「いいのよ。エクレールにはお使いを頼んでいるの。少し二人でお話ししましょう」

それは玉座から発せられる命令以上に強制力があった。
まるで柔らかな鎖に縛られているかのようだ。本来ならば諌めなければならない立場だが、
ほんの一時ならば、好意を無駄にするなど、とつい言い訳を並べてしまう。
ディトリッシュは内心で自嘲した。まさにそれこそが言い訳であるのだ。

「わかりました。お供させていただきます」

結局、フィーリアと離れがたいと思っているのは自分。
今まで生きてきた中で、ここまで純粋に信を寄せてくれた人は居ない。
心から信頼できる者の為に力を尽くせることの幸せと充実感はこの世の何よりにも勝る。
フィーリアは幼子の様な笑みを浮かべる。もしかしたら、とふとディトリッシュは思った。

(この笑みを見る為に、彼女に仕えているのかもしれないな…)

二人は並んでアーチを潜った。
庭園は静かだった。花壇にも生垣にも大輪の花が咲き乱れ、緑を彩っている。
陽光を養分とするかのごとく、薔薇たちは青空の下に花弁を広げる。
この頃ようやく日の光にも耐性が付いてきた。
人が闇を恐れながら夜空の星々を愛でるのと同じように、快晴の空も鮮やかな薔薇も素直に美しいと感じられる。

フィーリアは薔薇の一つ一つを丁寧に説明してくれた。
この城にしかない品種や、遠い異国で改良された品種、子供の頭ほどにも大きい大輪。
フィーリアはその中の一つを差し示す。

「これはフウキというの。遠いハチマンから取り寄せた物だって言っていたわ。
別名を花の王とも言うそうよ。お祖父様が特に気に入ってらしたの」

「確かに。これほど見事な大輪ならば王と呼べるのも頷ける話ですが……」

「何か気になることでも?」

「いいえ。東国の王は謙虚さと質素な装いを美徳とすると聞いていたので」

そうね、とフィーリアは口元を抑えて笑う。
貴婦人のドレスでさえもここまで派手に装わない。
薔薇色の花弁が何重にも重ねられ、あたかもドレスのフリルのように端が白く染まっている。
美しかった。かつて故郷で見た薔薇とはまるで違う明るい色に心がざわめいた。

(違う。ここに黒い薔薇は無い)

不意に苦いものが込み上げてくる。フィーリアに気づかれぬよう視線を外した。
薔薇をモチーフにしたドレスは数知れず、いつの時代も貴婦人を魅了する。
夜会で見かけることも多い。男たちは見惚れたが、ディトリッシュは意識して視界から外していた。
ディトリッシュにとって薔薇はただ美しいだけの物ではなかった。
薔薇はあの男の象徴であった。

「貴方に謝らないといけないことがあるの」

「は……?」

思わず聞き返す。ここに来たばかりの頃に幾度も耳にした言葉だ。
フィーリアは打って変わって真剣な表情をしていた。
意図が読めず青い瞳を窺う。彼女は悲しげに眉宇を寄せるばかりだった。

「私、無神経に詮索してしまって……。貴方の生まれのことを…。
本当にごめんなさい。ずっと謝ろうって思っていたの」

ああ、と得心がいく。同時に、ずっと気に掛けていたのかと驚く。
かつて人間を支配し闇の世界を築いていた勢力の首魁。最も強大で最も美しいと恐れられた吸血鬼。
名を呼ぶことすら憚られ黒貴族と呼ばれる男こそが己の父親だということ。
ディトリッシュが守っている秘密の中で最も大きく、他者に影響を及ぼすものだった。

「お気になさらずに。執政官殿の懸念は最もなことです」

遅かれ早かれ知られてしまうのは避けられないと思っていた。
黒貴族の側近だった来歴、それに加えて自身も吸血鬼だという身の上。
だれもがあの男の血縁ではないかと想像する。
今まで静かだったのは詮索するには少しばかり勇気のいることだったからだ。
しかし、執政官の行動が予想以上に迅速だったことと、
フィーリアの闇への恐怖心が思った以上に薄かったことが、時を早めてしまった。

「でも、私も興味本位で知りたいと思ったことは事実だわ。
きっと貴方は誰にも知られたくなかったのでしょう?」

「人の世でひけらかすことではないでしょうね」

「やっぱり……」

「それでも打ち明けることができて安堵しています。
私も隠し事をしたまま、殿下にお仕えするのは心苦しかったですから。
殿下と私がまだこうして主従の契りを結んでいる。それでよろしいのではないでしょうか」

誤魔化すことも欺くこともできたはずだった。
打ち明けたのは、いずれは知られてしまうことだと諦めていた面もあったが、
フィーリアならば受け入れてくれるのではと云う期待もあったのではないか。
期待、というよりは縋るような気持ちだったかもしれない。
何にせよフィーリアが気に病むことではないのだ。

「ごめんなさい。気を遣わせてしまって…」

取り繕ったつもりはないのだが。
ディトリッシュは、この俯き加減な少女が持つ一種の気難しさに思わず苦笑してしまう。
騎士に必要な物は誇りと主からの信頼。そしてそれ以上のものを既に貰っている。
こうして二人きりの時間を過ごせることが答えだった。

「では、今度は私が殿下のことをお聞きしてもよろしいでしょうか」

「私のこと?」

「はい。それで痛み分けということにしておきましょう」

「本当にそれだけでいいの?」

フィーリアは上目づかいでディトリッシュを見る。
騎士がそれ以上のことをか弱い少女にしたらそれこそ問題だろう。
まだまだこういうところは青い少女のままだと思うと、微笑ましい気分になる。

「ええ。何でも結構です。好きな花、好きな本、ご家族や友人のこと。本当にどんなことでも構いません」

恥じらっているのか、フィーリアは戸惑った様を見せる。
しばらく悩んだ末、意を決した風情で口を開いた。

「それなら……私の家族のことを…」

「…家族?」

「ええ。お父様――先王陛下のことはご存じ?」

「…申し訳ございません。遠い辺境の地ゆえ詳しくは…穏やかな方であったとしか」

それに加えて凡庸な王であったというのが世評だった。
病弱で凡庸、宰相の傀儡に過ぎなかったという噂さえある。
穏やか、というのはその中で最も当たり障りのない評価だった。
フィーリアも耳にしたことがあるのか、曖昧な笑みを浮かべる。

二人は場所を移し、噴水の縁に腰掛ける。
生垣や花壇の隅で庭師が忙しなく働いている姿が時折見えた。
薔薇の甘い香りが風に乗って二人の間に届く。
噴水は穏やかな飛沫を上げ、カスケードを伝い静かな波紋を描く。
そうした中でフィーリアはぽつぽつと語り始める。

「確かに穏やかな方だったわ。
声を荒げた所は見たことなかったし、私も叱られたことは無かったわ。
と、言うよりも、政務にかかりきりだったり、体調を崩されていたりして、
ほとんど顔を合わせることが無かったの。だから私もどんな方だったのか自信を持って言えないの」

父と最も長く時間を過ごしたのはたぶん宰相だろうと、フィーリアは寂しげに語った。

「前にお話ししてくれたでしょう。貴方のお父様がどのような方か……」

「ええ……」

父の為人は残酷だった。しかし華やかで人を惹きつける。
フィーリアの背後で生き生きと咲く薔薇に父親の姿を重ねた。

「普通の親子って、自分の親がどんな人なのか考え込まなくても知っているものなのよね。
エクレールも昔に死に別れてしまったけれど、どんな方だったのか偶に話してくれるわ。
ヴィンフリートだって、普段は喧嘩ばかりしているのに、小父様の性格をきちんと理解している。
そう考えたらね、何だか取り返しのつかないことをしたような気がして……」

「シルヴェストル卿ならばご存じなのでは? 親しい間柄であったと聞きました」

「そうね。でも、きっと小父様はお父様の立派な部分しか話してくれないわ。
もしかしたら宰相の方が色々と教えてくれるかもしれないわね」

「私は……それだけで充分だと思います」

「どうして?」

「もし肉親の為人を疑うことにでもなったら……。やりきれません」

そうかもしれないわね、とフィーリアは複雑な面持ちで呟く。

「それでも知りたい、と思うのは強情かしら?」

思いがけないほど強い口調だった。

「お兄様もお母様だってそう。何も知らないままそれが当たり前だと思っていたわ。
こうして一人残されるまで気に掛けもしなかった。本当に酷い娘だわ」

「ご自身を責めませぬよう。殿下は父君や兄君の名を貶めることなくご立派にやっておられます」

フィーリアは首を横に振って否定する。

「ディトリッシュはお父様のことをお慕いしているのよね」

「……ええ」

「私は……わからないの。思い出せるのは病床の青白いお顔ばかり。
父としても王としても尊敬しているし、深く感謝もしているわ。
危篤に陥られた時は一晩中祈りを捧げもしたわ。
けれども、エクレールやヴィンフリートに対するような気持ちは……湧かないの」

省みられぬことが常態と化していた王宮の中で恨まず嘆かず、
与えられたものに感謝して慎み深く暮らすことは誰しもが出来ることではない。
しかし果たしてそれは報われただろうか。家族から遠ざけられた挙句、孤独という傷を残しただけではないのか。
彼女の心は親愛の情よりも、形式的な尊敬ばかりが占めている。

(ならばそれは逆も考えられるのでは)

子から親への情が形式的なものであるならば、親から子へ注がれた愛情も同様なのではあるまいか。
玉座から見下ろすのは我が子ではなく、我が国の王女と王子だったのではなかろうか。
恐らくフィーリアはそれを察していたのだ。子供でありながら親が遠い存在であると理解したのだ。

(本当に幸せだったのだろうか……?)

ディトリッシュは初めて疑問に思った。
愛情に包まれ、何不自由なく暮らしていた娘だと思っていた。
しかし彼女の身の内には決して消えることの無い孤独が横たわっている。
なまじ恵まれているからこそ打ち明けられなかった悲しみの証だった。
だが、愛するが故に親を求め知りたいと思うことに何の罪があろうか。

「ごめんなさい。あまり楽しい話じゃなかったわね」

「いいえ。殿下を知ることが出来て嬉しく思います」

「ありがとう。ディトリッシュは優しいのね」

優しくはない。現にフィーリアの苦悩を想像すらできなかった。
愛されたが故に世知に疎く、庇護されていたが故に内気な少女だと思っていた。

(傲慢な男だ)

フィーリアを哀れに思いながら、心のどこかで見くびってはいなかったか。
所詮は望まれて愛されてきた娘だから、と嫉妬にも似た感情を抱いてはいなかったか。
予期せず己の醜さを暴かれてしまう形となった。

「ねえ見て」

フィーリアは不意に歩き出す。
その先の赤茶色の土にはまだ何も植えられていない。
秋の薔薇が植えられるのだとフィーリアは語る。

「お父様はここに植えられる薔薇がお好きだったんですって。
とても小さい白色の薔薇よ。きっとお祖父様とお父様って似ていらっしゃらなかったのね」

「殿下は父君と似ていらしたのですか」

「どちらかと言うとお母様の方かしら。私はあまり覚えていないのだけれど――」

フィーリアが不意に口ごもる。何を言わんとしていたのか容易に察することが出来た。
彼女が罪悪感を抱かぬうちに自分から口にした。

「私はあまり父とは似ておりません。髪色も瞳も全く別の色をしています。」

「…そうだったの。貴方の髪色は綺麗ね。夜空の色みたい」

「お褒めに預かり光栄です。おそらく母に似たのでしょう。
そのお蔭か吸血鬼としての特性もさほど受け継がずに済みました。
こうして日の下で殿下とお話しできることを感謝しています」

私もよ、とフィーリアは微笑む。
この屈託の無い微笑みの裏に孤独が横たわっているかと思うと悲しさを覚える。
しかし抱きしめ慰める役は己ではない。その特権は騎士に過ぎない男に与えられる物ではなかった。
フィーリアの夫となる者は、彼女の話に耳を傾けることが出来る者であればいいと思う。

「貴方に謝るつもりだったのだけれど、結局また貴方に話を聞いて貰ってしまったわね」

「構いませんよ。少しでも殿下のお心が軽くなられたならば幸いです」

「貴方とお話ししていると心が安らぐわ。本当に、甘えてしまうわ」

フィーリアは薔薇が植えられるはずの場所を見る。
まるで亡き父の面影を見ているかのように。

「今になって思うわ。お父様ともこうしてお話したかった。
私に勇気が無かった所為で何も出来無かった。
皆に聞き分けの良くない王女と思われたくない一心で、何もかも諦めていたのね」

本当は甘えたかった。そんな本心が聞こえてくるようだった。
フィーリアは父親に出来なかったことを自分にしているだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、呑み込み切れない複雑な感情がディトリッシュの内に湧き上がる。
少女の横顔を愛おしいと思うと同時に、手酷く痛めつけたいと衝動的に感じた。

「ディトリッシュ?」

衝動の方はすぐに収まった。
恐れの無い瞳に覗きこまれ、改めて己の恐ろしい衝動に戦慄が走った。
それが“渇き”という形でディトリッシュの表層に表れるのは、まだ少し後のことだった。

「もう少し一緒にいましょう?」

無邪気な願いを受け入れながら、衝動を振り払うように愛おしさを噛み締めていた。




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