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あれからどんなやりとりがあったのかは知らない。だが、フィーリアの気安さは変わらなかった。
城内ですれ違った騎士たちには、何か不便は無いか、困ったことは無いか、と声を掛け、
使用人や侍女たちにも、顔を合わせればご苦労様と優しく労った。
フィーリアは城内の使用人から、娘か妹のように愛されていた。

フィーリア――実際には執政官からだろうが、から命じられる任務は
己が執政官だった頃にこなしてきたものと変わり映えしない。
治安維持と徴税、それに領主への遣いと情報工作が加わる。
殊更遠ざけられていると感じたことは無く、また特に重用されていると思ったことも無い。
フィーリアとは報告の時に顔を合わせるくらいで、あれきり親しげに会話をすることは無かった。

同輩の騎士とは、あからさまに敵意を向けられることも無く、
さりとて軽んじられることも無く、一定の距離を保っていた。
遍歴の騎士で構成されている親衛騎士たちは思いの外柔軟性に富んでいた。
闇の者が同輩となることに関しても早々に順応してしまった。

しかし、内実は様々で、必ずしも敬意と信頼を以って迎えられたわけではない。
闇の者が騎士を名乗るなど烏滸がましいといわんばかりに、遠目で怨嗟を飛ばす者も確実に存在した。
ただ、どのような形であれ、闇の者と人間の遺恨を水面下で抑えられているのは、
目に見えない王家の威光と云うものの力が働いているからだろう。
王女の親衛騎士という肩書、というよりも死してなお燦然と輝く騎士王の威光にこそ頭を垂れるのだ。

かつて闇の王を打倒した英雄の末裔。
その血が持つ意味は人間たちにとっては頭上に輝く太陽にも等しいものだった。
圧倒的に不利な状況で、その事実だけが騎士たちの士気と規律を保たせていた。
騎士王は奇跡こそ顕現させないものの、確かな力で子孫を確かに守っていた。





早いもので月の半分が過ぎた。
夜に寝て朝に起きるという習慣も苦では無くなったものの、やはり日差しは苦手だった。
中庭の訓練場では騎士たちがそれぞれ鍛練を行っている。
ディトリッシュは、今しがた眩しさに耐えかねて訓練を抜けてきたところだった。
慣れなければと思いつつも、雲一つない青空には爽快感よりも苦々しさを覚えてしまう。
せめて日差しが弱くなるまでは、と日陰に入った。

騎士は任務が与えられなければ待機となる。
その間は鍛練に励むのが建前だが、最近の騎士はそうでもないらしい。
財産を増やすことに腐心したり、貧しさから出稼ぎに赴いたり、
果ては芸術や骨董など趣味の世界に没頭しすぎて、身持ちを崩す者さえいるらしい。
王女の騎士たちは勤勉な者が多いようで、鍛練を積むことを疑問に思う者はいなかった。

(そう言えば――)

思い立ち、訓練所を抜けて手入れが施された中庭に向かう。
木々の間に風が通り抜ける。薔薇の蕾はまだ固い。初夏になれば一斉に咲き始めるだろう。
薔薇のアーチの先には温室と花壇がある。何代か前の王が贅を尽くして作らせたらしい。
庭園には人の気配があった。アーチを潜らず、近くの木陰に落ち着く。

太陽が照っている間でも、何故だかこの空間は落ち着いた。
適度に日陰があり、王宮に滞在する人間が少なくなっている所為か常に閑散としているのだ。
そして、緑に囲まれたそこは鳥の声がひっきりなしに聞こえてくる。

(数が減ったか……?)

鳴き声が減っている。二組のつがいと、飛べるようになったばかりの小鳥がいたはずだった。
雛だった小鳥が飛び立つのをささやかな楽しみにしていた。その小鳥の声が少なくなっている。
もう一度耳を澄ませる。やはり鳴き声が一つ無くなっていた。
庭師に追い立てられたか、蛇に喰われてしまったか。悲観的な想像が頭をよぎる。
野の獣が死ぬのは自然の摂理だ。わかってはいるものの感傷的になってしまう。
気を紛らわせる為に、目に付く限りの鳥を数える。

(本当に、時間を使うのが下手だ)

我ながら、つまらない男だと思う。
鳥たちは、見てくれだけは平和そのものだった。一匹いなくなろうが気にするそぶりを見せない。
一組のつがいは少し離れた場所にそれぞれ止まり、時折さえずりながら互いを確かめ合っていた。
不意に虚しくなり目を背ける。目を逸らしてもさえずりは止まらない。
訓練場に戻ろうと踵を返しかけた。

「ごきげんよう、ディトリッシュ」

鳥のさえずりのような声に足を止める。
恐れぬどころか親しみを込めて話しかけて来る者はフィーリアしかいなかった。
フィーリアはアーチの向こう側で微笑んでいた。
謁見の間で侍女と執政官の間を右往左往していた時の様子は微塵も感じられない。
誰からも愛され、屈託なく育った愛らしい少女そのものだった。

「…ごきげんよう、殿下」

フィーリアはドレスの裾をつまみ、早足でこちら側へやって来る。
ドレスの裾が歩くたびにひらひらと舞う。青色のドレスが眩しいくらいに輝いていた。

「貴方もここがお好きなの?」

真っ直ぐな好意に躊躇いすら覚える。
フィーリアは何故か一人だった。常に傍を離れない侍女も姿が見えない。
誰の監視も無い状況は意外なほどに居心地の悪さを覚える。
軽く息を吸う。まだ幼さの残る少女を怯えさせぬよう、努めて穏やかに答えた。

「はい。とても静かで良い場所だと思います。
殿下は庭園の方にいらしていたのですね。今はどのような花が咲いていますか?」

フィーリアは首を横に振る。

「今はまだ。ちょうどヒギンスが苗を植え替えているところなの。
おじさ――シルヴェストル卿から贈って頂いて。花が咲くのは春先ですって」

「そうですか。では今は花壇も物寂しい様子のようですね」

「ええ。だから、毎年この季節は鳥のさえずりを聞いているのよ」

フィーリアの視線が先ほどのつがいに向けられる。
軽く驚く。まさか同じものを見ていたとは。つがいは王女に見守られながら羽を休めていた。
そこに一回りほど小さい一羽が舞い降りた。フィーリアは嬉しそうに微笑む。

「もう飛べるようになったのね」

居なくなったと思った小鳥は父母のさえずりに加わる。
良かった、と内心で安堵した。

「鳥はお好きで?」

「ええ。空を飛んでいるのを見ると、本当に気持ちよさそうで」

鳥は飛ぶ為に生きているのではない。生きる為に空を飛んでいるのだ。
諦観と厭世に満ちた父の言葉が蘇ってくる。
その時は、刹那的な快楽と破壊に身を委ねる父が酷く哀れな存在に思えたものだ。
餌を見つける為に空を飛ぶ鳥は、羽があるにもかかわらずこの狭い中庭に留まっている。
この中庭では庭番が餌を撒く為か、飛んでいく必要もない。
恐らく鳥たちは幸せなのだろう。外敵も少なく、餌を取る必要もないのだ。
この中庭は鳥たちにとって少しばかり大きな鳥かごに過ぎない。

「ディトリッシュは鳥はお好き?」

「ええ、好きです。子供の頃は飼っていたこともありました」

彼らの内実が自由とはかけ離れたものだったとしても、羽を広げて懸命に生きていることには変わりない。
心を和ませてくれる鳴き声も可愛らしい仕草も好きだった。
フィーリアは羨ましげに目を輝かせた。私も飼ってみたかったわ、とぽつりと呟く。

「飼えなかった理由が?」

理由があったわけではない、とフィーリアは寂しげに首を振った。

「……ただ、何となく言えなくて。お父様もお忙しい方だったし、ご迷惑はかけられなかったわ。
それに私にちゃんとお世話できるか不安だったの」

フィーリアの立場ならば人を遣って世話をさせればいい。
そう言い掛けて誤りに気付いた。手ずから世話をしないで、何の意味があるのだろう。
恐らくフィーリアも同意見だろう。

「一度、お勉強の先生にも相談したのよ。
でも、きっと夢中になりすぎて他のことが疎かになってしまうから、止めた方が良いって。
確かに先生の仰る通りだったわ。私、要領の良い方ではなかったから……」

ちょうど、つがいが揃って飛び立って行ってしまう。
フィーリアはただ名残惜しげに飛んで行った方向を見つめていた。

「今からでも遅くは無いのでは」

え、とフィーリアは聞き返す。

「昔出来なかったことが知らぬ間に出来るようになっている。よくあることです。
恐れながら、今では公務の傍らに世話をすることもできるのではないでしょうか」

フィーリアは目を丸くして戸惑った様相を見せる。
次いで気弱そうに目を伏せて、不安げに手を胸元に合わせた。

「でも、私なんかが……」

「鳥を飼うのはさほど難しいことではありません。
慈しみ、気に掛けてさえやれば、きっと飼い主に応えてくれますよ」

しかしフィーリアの顔は晴れない。不安を押し隠すように手を握りこんでいる。
些細なことであるが幼かったフィーリアにとって、
ささやかな望みをできるはずがないの一言で切り捨てられたことは、
強い感情を呼び起こすほど大きく落胆することだったのだろう。
謁見の間で二人の言い争いを前にしていた時も、こうして不安げに眉根を寄せ、無力さに苛まれていたのだろう。

(不安か――)

不安にならない筈がない。親が死に、兄は行方が知れず。
悲しむ間もなく、玉座へ祀り上げられようとしたかと思えば、引きずりおろされようとしている。
頼みの臣下は皆若く、仕えてから日も浅い者たちばかり。
自身は右も左もわからない状況。政敵は強大で、領主たちは猜疑の目を向けている。
平和な時代であれば、政治の舞台に立つことも無く、何不自由ない暮らしが約束されていただろうに。

(優しく穏やかなままで…)

しかし今やその性格は、気弱さと卑屈さとして、周囲の目には映っている。
損得都合から離れた場所で話してみて、初めてそれが酷く身勝手なことだと気が付いた。
あの時、躊躇なく己の手を取った少女。柔らかく暖かかった手は、今は白く震えている。
どんな些細なことでも良い。この人に今必要なのは安らぎではないのだろうか。

「執政官殿も反対されないでしょう。
たとえ王を決する試練の最中であっても、心を慰めるものは必要かと存じます。
殿下の侍女殿も喜んで手伝ってくださるのではないでしょうか?」

「そう、かしら……。私に出来るかしら?」

「愛情と責任さえあれば誰でも。
もしよろしければ、私も幾らか飼い方をお教えいたします」

「……たくさん聞いてしまうかもしれないけれど、それでも構わない?」

勿論と答えるとフィーリアの表情から憂いが消え、ぱあと明るくなる。
ずっとわだかまっていたものが、ふと抜け落ちたような笑顔だった。
つい嬉しくなってしまう。フィーリアは弾んだ声で尋ねた。

「どんな子がいいかしら? ねえディトリッシュ」

「私個人の意見ですが、カナリアは綺麗に歌います。きっと、殿下のお心を和ませてくれるでしょう」

カナリア、とフィーリアは熱に浮かされたように呟く。
可愛らしい方だ、と感じた。






「可愛い子ね」

フィーリアは目を細めて鳥かごの中の小鳥を見下ろす。
カナリアは主に応えるよう二、三度鳴いて止まり木に飛び乗った。
カナリアが王女の部屋の住民になった時から、フィーリアは欠かさず世話を続けている。

「随分となついて来ましたね」

「でも、まだ手には乗ってくれないの」

ディトリッシュの連れてきたカナリアは美しい歌声をよく聞かせた。
元は弱り切って処分される所を、ディトリッシュが引き取ったものだった。
手厚く看護し、元通り歌声を響かせるようになった頃、フィーリアに譲った。
中庭で話した後、フィーリアは出入りの商人にカナリアの件を話したのだが色よい返事は貰えなかった。
ディトリッシュも失念していたが、カナリアは遠い大陸からの渡来物で、珍しく高価な愛玩鳥であった。
懐事情の厳しい王家よりも、より豊かな貴族や商人の手に優先的に売られてしまう。
王家の凋落がこんなところにも表れているとは、双方とも思いもしなかった。
任務で赴いた地で偶然見つけなければ、こうして王女の部屋で歌うカナリアは見られなかっただろう。

「飼い主は親も同然。然様に可愛がってくださればきっと」

フィーリアはそっと鳥かごを空ける。
カナリアが狙い澄ましたかのようにディトリッシュへ向かって飛び立った。
戸惑いをよそに、カナリアは肩へ止まり愛を囁くように鳴き続ける。

「この子ね、ディトリッシュのことが大好きなの。貴方が来るとすごく嬉しいみたい」

「……まったく、とんだ無作法者です」

指を引き寄せると、何の躊躇いも無く飛び移る。
それを見て、フィーリアは屈託なく笑う。

「貴方が優しいのちゃんと知っているのね」

「……そうでしょうか」

苦笑し曖昧な返事をする。
城内の使用人から嫌悪と恐怖の感情を向けられているのはディトリッシュも知っている。
こうして王女と二人きりで話をするのも、普通では考えられないことだった。
時にフィーリアはディトリッシュが不安になるほど過大な信頼を寄せることがある。
掛け値無しの信頼は嬉しく思ったが、その根源がどこにあるのか不思議だった。

「本当よ。今もそう。こうして私を助けてくれてるわ。
剣の誓約の時にお会いした時は……ごめんなさい、冷たい方のように思えたけれど、
直接お話ししてすぐに間違っていると気づいたわ」

「…そう思って下さるのは殿下だけです。私を斯様なまで必要としてくださり光栄に存じます。
どうかお気遣い無きよう、闇の者が警戒されるのは当然のことですから」

「そんな、皆貴方を知らないだけよ」

フィーリアは吐露する。
物知らずで取り柄も無く、王家の娘と云うただ一点のみで支えられている自分に、
宰相に勝る部分が何一つ無かった自分の元に、
執政官と云う高い地位にいた方が来てくれるのが、どれだけ嬉しかったことか。
不甲斐無い王女に失望するどころか、こうして任務とは関係ないところまで助けてくれて本当に感謝してもしきれないと。

「殿下」

「…悔しいわ。私は王女なのに貴方の名誉を守ることすらできないなんて」

無力さに歯噛みするのを、カナリアが慰める。
黄色い羽を愛らしい仕草で揺らし、憂い顔王女の前でダンスを踊る。

「充分です。そのお心だけでも」

「でも――」

そっと寄り添う。ドレスの袖とマントの裾が触れるか触れ無いかの位置で。
視線をカナリアに移したまま、ディトリッシュは語りかけた。

「己の力を誇ることは誰しもできますが、己の無力さを知ることは誰もができるわけではありません。
今はまだ、一つずつ出来ることを増やしていけばそれで良いのです。
私は殿下の騎士です。貴女が善き王となられるよう、幾らでもお助けいたしましょう」

白い柔らかな手がディトリッシュの腕にそっと触れる。
驚き目を瞠る男にフィーリアは告げた。

「ディトリッシュ。ありがとう」

手はすぐに離れてしまう。僅かな時間であったが心に深く刻み込まれた。





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