12

戦の匂いを初めて嗅いだ。これこそが先祖が、騎士王が嗅いでいたもの。
血と埃、それに汗、シーツに覆われていた遺体を見た時、死臭と云うものを記憶した。
母や乳母、父の亡骸に縋った時には無かった匂いだ。気が付かなかっただけなのかもしれない。
シーツに包まれた彼らはまだ温かく、今にも起き上ってフィーリアと頭を撫でてくれそうに思えた。
けれども、兵たちは違った。体は投げ出されたまま血を失って冷たく、まるで石のようだった。

朝から晩まで働いていたエクレールは、とうとう糸が切れて倒れてしまった。
いくら年上で姉のような存在だとしても、まだフィーリアと幾分も変わらぬ小娘。
目を見開き、何かを訴えるかのような遺体を直視させるのは酷であった。

エクレールは寝室で寝込んでいる。
代わりの侍女は正直者だがどこか頼りなく、言葉を交わすのもぎこちなさを感じる。
兵糧の準備、侍女たちの避難、
それから、いつまで城に留まろうとする愚かな主君の世話、本当によくやってくれたと思う。

フィーリアには休んでいる暇は無い。
各領主への援軍の礼や、動揺する領民たちを慰撫しなければならない。
城内から戦争の痕跡を拭い落とすことも。すぐに高みの見物を決め込んでいた貴族たちが、
見舞いと称して消耗の具合を探りに来るのだ。決して弱味を見せてはならない。

宰相はほくそ笑んでいるだろう。既に援助を申し出る書状が届いている。
闇の者の襲撃から一夜明けた今日にだ。本当に抜け目のない人だと思う。
一方で自陣営の領主に警戒を呼び掛けるなど、闇に対する脅威は共有しているようで、
今のところ混乱に乗じて工作を仕掛けてきているという情報は無い。

(悔しい……)

備えてきたはずなのに、こうも痛手を蒙った。
黒貴族にしてみれば小指を動かした程度のもので。これが人の子との差であるのか。
それとも――、

(私、だから)

お兄様なら、お父様なら、宰相ならば。もっと被害を抑えられたのでは?
そもそも黒貴族に付け込まれなかったのではなかろうか。
全て自分が甘かった。突如として友好の仮面を剥いだ吸血鬼は、悪鬼そのものだった。
奸計を弄し、謀り、奪い、殺す。戯れに。
後悔してもしきれない。もっと忠告を聞いていたらとしきりに思う。

戦死した城兵の埋葬費、遺族への見舞金を国庫で負担することへの許可を求める書類にサインし、
ふと、フィーリアは立ち返った。嵐が胸の奥を通り過ぎる。
嵐は奇妙なざわめきを残し、ざわめきはフィーリアに爪痕を残していく。

どうして私が――。

こんなことをしなければならないのだろうか。
考えてすぐに、卑しい、と思った。皆が傷つきながらも奮戦してくれたのは誰の為なのだ。
けれども心の片隅には嫌だ嫌だと癇癪を起こす子供のような自分が存在する。

(可哀想に)

脳裏に声がひらめく。闇の王の声。この災禍を齎した元凶。

(男ばかりのこの国で女だてらに政治を司るのはさぞ辛かろう)

そうよ。皆私の言うことなど聞いてくれないもの。

(女であるが故に遠ざけられ、今さら剣と玉座を放り投げられ如何とすればよい)

本当に。どうして貴方はそこまで私の心を正しく言い合ててしまえるの。
けれどもそんなに優しく慰めてくれた人が、いとも簡単に気を変えてしまえるのね
涙が滲む。悔しさと自分に対する怒りで。こんなに弱い女だから付け込まれる。
声を殺して泣いた。涙が書を汚さぬようドレスの袖で顔を覆う。

(戦も政治も嫌だけれど、こんな思いをするのはもっと嫌……)

亡くなった人たちに申し訳が立たない。
先祖代々仕え、姫様と慕ってくれた城兵たちが哀れでならなかった。
彼らにも家族や愛する人が居ただろうに。こんな理不尽に命を奪われて良いはずがない。
涙を拭く。泣いている暇は無い。次はより身近な人の命が奪われるかもしれない。

ディトリッシュ。

己が身を省みず盾となってくれた。会いたいと胸の内で呟く。
愛する人に命を賭して守られたことに感涙するのが女であれば、勇気と忠誠を称えるのが騎士の主である。
主として上辺だけの称賛は済ませたとあれば、彼の胸に飛び込むことが許されるのだろうか。
いいえ、とフィーリアは否定する。ただ恋しさで縋り付くほど私は身勝手な女ではないと。
私を逃がす為に手傷を負った彼に必要なのは休息。

愛しているのであれば、彼の快復を一番に願うべきだ。
本当はすぐにでも執務室を飛び出していきたい。人目を憚らず泣いて無事を祝いたかった。
血の繋がった父と相争うことになり、内心は深く懊悩している事だろう。
きっと私の比ではない。其れだと言うのに、私は何と卑小なことで思い悩んでいるのだろう。

心の内を聞かせて欲しい。
惑ってばかりの女が何と烏滸がましいことを願うのだ。
彼を救いたいとは口ばかりで、本当は自分が心細いだけだというのに。
自らの愚かさを悔い、散って行った者たちに心を痛めながら、口実を探している己が本当に嫌だった。
フィーリアは侍女を呼んだ。

「執政官の元に参ります」

先触れの為に侍女を走らせる。
一人で甘さを打ち払うのは困難だった。せめてヴィンフリートと現実の話をしていれば、と
都合よく他人を頼ることにした。

外は夜の帳が降りようとしている。
夏が終わり、実りの季節も終わりに差し掛かり、もうじき冬が来る。
早いものだと、独りごちた。
兄が消え、父が亡くなり、あれよと言う間にここまで来てしまった。
剣の誓約で領主たちの値踏みするような視線を浴びたのが遠い昔のことのように思える。

今年は凶作にも見舞われず、安心して冬を迎えることが出来る。
幼い頃は、冬が訪れる度にちらちらと降る雪を暖炉の火に当たりながら眺めていた。
その都度不思議に思ったものだ。雪はどこから降りてくるのだろうと。

不意に、目の前を雪が舞い落ちた。

机の上に落ちたそれは、ひとひらの花びら。
夜よりも暗い漆黒の花弁。何故雪と見間違えたのだろう。
また花びらが舞い落ちる。今度は扉の前。フィーリアは立ち上がる。
しゃがみ、そっと花びらを拾うと微かな香りが鼻をくすぐった。

薔薇の香りだった。
漆黒の薔薇。弾かれた様に扉を開ける。
寒々と冷えた廊下には人影一つ見当たらない。護衛の兵も、侍女も、消えてしまった。
また花びらが舞い落ちる。誘われていると知りながらフィーリアは次々と落ちてくる花びらを追った。

最後に花びらが落ちたのは数ある応接室の中の一つ。
硝子窓にはひびが入り、使われなかった土嚢が部屋の隅にうず高く積まれている。
フィーリアは屈み、花びらを手に取った。黒の薔薇。あの男の象徴だった。
再び顔を上げた時には、あの男がそこに居た。
精巧な象牙細工のような相貌に深紅の瞳、月明かりのような銀色の髪を靡かせて、
闇の首魁はさながら我が城であるかのような佇まいで王女を迎えた。

「少し痩せたかな。御機嫌ようフィーリア」

声が、出なかった。何かを言おうとしたはずなのに。
この男の瞳に曝されると、酷く不安な気分になりながら目が離せなくなる。
悲鳴を漏らさぬよう口元を覆い、震えを悟られぬよう身を縮めた。
突然現れるのは承知の上だ。この男との出会いも唐突であった。

「おや、怖がらせてしまったようだね。私の催しはお気に召さなかったかな」

「あ、貴方は」

声が震えている。どうしてもっと毅然とできない。
悔しさで涙が滲みそうになるのを、男は優しげな瞳で見守る。

「いつもの侍女と一緒ではないのかね。安心するといい。
私は何もせぬ。ただ息子と君、それと人間たちの健闘を称えに来ただけだ」

「け、健闘、ですって…?」

明白な怒りが恐怖を上回る。生存を賭けた戦いは目の前の男にとっては遊戯に過ぎず、
人々が傷つき、恐怖に慄いたことさえも、自身が主催した狐狩りの一幕程度にしか思っていないのだ。
ああ、とフィーリアは内心で激しく悔いた。
こんな男に惑わされていたなんて、私は取り返しのつかない事態を招いてしまったのだわ――。

「そうだ。君は真に騎士王の裔であったのだな。嬉しく思うよ。フィーリア」

「貴方を喜ばせるつもりはありません……!」

「嫌われてしまったか。私は益々君が気に入った」

「止めてください。もう、私と貴方は敵です。頂いた黒薔薇はお返しします」

「所詮闇と人は相容れぬ、と。騎士王も同じことを言ったものだ。
だからこそ、枷も剣も取り払い、王家の墓標を背負わせ、裸のまま跪かせたくなる」

背筋が凍る。何故、私は一人で黒貴族と対峙出来ていたのだ。
殺される、と思った。やはり、毅然となんてできない。仮面を剥いだ黒貴族は恐ろしくて仕方が無い。
座り込んでしまいたくなるのを堪えるので必死だった。

「そう恐れずともよい。何もせぬと言ったからには約束は守る。
それにしても、君は本当に飽きない。まるで騎士王のように堂々としたと見れば、
次の瞬間にはもうか弱き乙女のように身を震わせている。どちらが本当の君なのだ?」

「あ、貴方の仰っていることは、よくわかりません」

「靴が欲しいと強請るのも君であれば、愛しい男を傍に置きたいと思うのも君だ、ということだ」

黒貴族の唇が弧を描く。
まるでその場に居合わせたかのような言い草に、羞恥で息が苦しくなる。
無力さを嘲笑われるよりも、卑しさを突き付けられる方が堪えた。

「君は自分が思っているよりも聡明で強欲だ。
揺り籠の赤子は存外に早く成長するが、成熟には程遠い。
自由と愛、どちらも手に入れられると思い込んでいるのではないかね」

そんなこと、と反論しようとするも声が上手く出なかった。

「虚ろを等しくする者だからこそ惹かれ合う、か。
楽しみだよ。君を手に入れるのも、ディトリッシュが私に牙を剥くのも」

「な、何を」

黒貴族は笑った。

「驚くことではあるまい。我が息子は君に触れる男を何人たりとも許さぬだろうよ。
それがたとえ父であろうとも。いや、私だからこそ許さぬのだ」

何故意に介そうともしないのだ。親に剣を向けて、苦悩せぬ子などいるものか。
親を愛さぬ子はいない、と語った息子に、何と酷薄なことを。
ディトリッシュの心を思えば、胸が引き裂かれる。

「常々、血族の枷を疎ましく思っていた男だ。
必ずや私に剣を向けるに違いない。それでこそ作った甲斐があるというものだ」

甲斐、甲斐というのは。彼が生まれてきた意味、とは――。
震えが走る。意に介さないどころか、実の子さえも玩具でしか無いのだ。

「何故貴方はこんな…人を弄ぶようなこと……。
ディトリッシュでさえも、どうして。彼は貴方の血の繋がった子ではないのですか…」

「血の繋がりが抑えにならぬのは、君たち人の子が証明していよう。
短い生の中でさえも、調和ではなく、争い、騙り、奪うことを選ぶのが人間ではないか。
それがたとえ親子と雖も。君は一人取り残された時に、父や兄を僅かにでも怨まなかったか?」

黒貴族の言葉は、フィーリアを覆う厚いカーテンを容易く切り裂く。
確かに、そうだった。それ以前にも、兄にばかり期待を寄せる父をほんの僅かに恨めしく思っていた。
けれども、それは気にされたかったこと、ひいては愛されたかったことへの裏返しだ。
闇であれ、人であれ、親を求める子の心に何の違いがあるというのか。

「ディトリッシュは貴方を慕っています…」

「確かに私はあれの肉親であり、吸血の性を共にする者でもある。
君には口が裂けても語れぬ血の悦び、私以上に理解する者はおるまい」

違う、そう言うことを言っているのではない。胸に虚しさが広がる。
通じない。この人には言葉を尽くしても届かない。
王家に服せよ、人の世から去れ、などと云う無謀な命令よりも、余程ささやかではないか。
今ならば、彼の絶望が理解できる。辛かっただろう、さぞ悲しかっただろうに。

「何故、悲しむ。その血の呪縛こそが君の願いを叶える術であるだろう」

きっと一生わからないままなのだろう。
奸智に長け、富をほしいままにし、何人たりとも並び立つことは許されない力を持つ暴君が、
小娘の心一つ言い当てることが出来ないのだ。

(負けない)

この男にだけは屈したくない。
王女として、騎士王の裔としてだけでなく、一人の人としても。

「さて、名残惜しいがそろそろ帰らねばならぬ。
また会う日まで壮健でなフィーリア。あまり根を詰め過ぎてはいけないよ」

翻った黒の影にフィーリアは我に返った。
弾かれた様に言葉が飛びだす。

「待って。貴方は、どうして人々を苦しめるの。
人間が憎いから? 騎士王を怨んでいるから? どうして……」

男は、一瞬虚を突かれたかのように目を見開いた。
だが次の瞬間にはもう元の張りついたような笑みをたたえていた。

「君も私の花嫁となればわかるだろうよ」

薔薇の香りを残して黒貴族は消えた。



戻る/次へ


inserted by FC2 system