11


血を流す兵たちの間を青いドレスの少女が横切る。
動かなくなった体。どれほど問いかけても瞬きひとつすることの無くなった体。
ついに黒貴族の刃が王家の膝元へ振り下ろされたのだ。
人々は戦慄と共に、伝説の英雄を渇望した。
先祖が代々恐れてきたものが何であったのか、何と戦い何を手にしたのか。
出来るのは、ただ偉大な先祖を仰ぐだけか――。

黒貴族からの突然の宣戦布告。
その少しばかり前に王の試練への参加を表明したばかりだというのに、
突然の人間社会への一方的な通告は、全土を震え上がらせた。
標的となったのは王城、そして王女とその一派。

まるで示し合わされた決闘のようだった。
薔薇と共に届いた一通の書状。優雅な書体とは裏腹に書かれていたのは戦慄する内容だった。
数えて一月後に我が下僕らが城を頂戴しに参る、と。
麗しき王女殿下におかれましては我が城にお招きさせて頂くと続き、
そして、不肖の息子には丁重な出向かえを期待したい、とで締めくくられていた。

決闘。かの男にとっては戯れであった。
火蓋が落とされればただの殺し合いに過ぎない。
さしたる家柄でも無い下級騎士や、継ぐ家の無い遍歴騎士戦を心待ちにしていた。
功が立てられる。内戦には違いないが相手は闇の者、遠慮はいらぬ。
戦を知らぬ若い騎士は大言壮語を吐き、年嵩の者に強くたしなめられ、
闇の者の恐ろしさを滔々と説かれた。

万全だったはずだ。攻め入られることは予告されていた。
シルヴェストル卿へ援軍も要請し、各地から騎士を呼び戻し、闇の者へ対抗する為の訓練も積んでいた。
王女への声望と王家への敬慕は、そのまま士気となり熱を帯びて城を覆っていた。
しかし、足りなかったのだ。

いや、足りないということは無かった。
彼はそう思う。自らも手傷を負い、手当てを受けたが、自身を含めた城兵は奮戦した。
結果、損害は軽微に留められ、それどころか襲撃者の一人の首級を上げた。
これが勝利と呼ばずして何とするのか――。
人間同士の戦いならばそれでよい。

ディトリッシュは左腕を抑える。まだ少し熱を持っている。
もう少し避けるのが遅かったら左腕ごと持って行かれていただろう。
自身と対峙した人狼は並外れて大きく、強靭であった。
援軍が来なければどうなっていたかわからない。
攻めてきたのはただの三人、しかし異能を持つ闇の者たちだった。

一国の城を片指に満たない数で攻めたられて、危うく王手を掛けられるところだった。
堂々と宣戦布告され、ご丁寧に猶予まで与えられてこの様だった。
人間たちは先の勝利の余韻もつかの間、一様に放心している。
深手を負った者は横たわり。事切れた者はそのまま。

あれほど庭師が心血注いで整えた庭は見る影もない。
王女が愛した薔薇も、先代の即位と同時に植えられた林檎の木も、
その歴史ごと踏みつぶされ、焼け落ちてしまっている。
数々の悲喜劇を生み出した花の香る庭園は、煙と血の臭いに取って代わられ、
荒々しく踏み荒らされた草木が、さながら略奪の後のようにしなだれていた。

「殿下、このような場所にお出でにならずとも」

止めたのは古株の兵士長。
フィーリアの愛した庭園は血と黒煙が煙る戦場へと変わり果ててしまった。

「私の為に戦って下さった方たちですわ」

兵市長は傍らの執政官に助けを求めるが、
ヴィンフリートはよく通る声で、殿下の仰せのままに、と言ったきりだった。
フィーリアはそのまま傷つき倒れた者たちに声を掛け、忠義と献身を労る。
袖に血が付こうとも、目を覆うような傷を目にしても、
フィーリアは悲鳴一つ上げず、恐れに顔を歪めることも無かった。

――凛とされている。

どこからかそうした声が上がる。
自ら剣を振るえずとも、騎士の主たる堂々たる振る舞いだ。
それだけではない。あのお姿、何と可憐で慈悲深いことか――。
ディトリッシュはどこか遠い場所で周囲の声を聞いていた。

フィーリアは、やがてディトリッシュの元にもやって来る。
痛みに耐えるよう目を伏せ、その手に触れた。

「貴方の武勇に救われました。ディトリッシュ、貴方に心からの感謝を」

フィーリアの手から震えが伝わる。
もう少しディトリッシュが遅れていれば、フィーリアはあの人狼の手に掛かっていただろう。
文字通り九死に一生を得たのだ。しかし、死への恐怖が彼女の心胆を寒からしめたのではない。
ディトリッシュもまた震えていた。

無事で良かった、と掠れた声がディトリッシュの耳に届く。
それ以上は何も言えない。言葉を尽くしても足りないのだ。
衆目のある場、抱擁も出来なければ見つめ合うことさえ憚られる。
しかし、触れ合った手は余すところなく伝えてくれた。

手が離れた。
複雑な面持ちで見守っていた執政官と共にフィーリアは別の兵士の元へ向かう。
彼女が口を開くたびに、傷ついた人々の瞳に生気が蘇る。
侮りと紙一重だった気安さは、万人へ注がれる慈愛へと映っていた。
この期に及んで誰がフィーリアの王たる資質を疑うというのか。

逆境すらも追い風へと変えた。たとえ予期せぬ事態であったとしても、
時を味方に付けられるのは勝者となるに無くてはならぬ素質だ。
城を覆っていた失意は徐々に晴れていく。
黒貴族という暗雲は常に騎士王と云う清冽な風によって吹き払われるものだ。
時代の趨勢はフィーリアに傾き始めている。

が、それはあくまで人間の中での話。

王女と宰相。玉座という椅子の取りあい。
自らの繁栄と生存を賭け両者を値踏みし、右往左往する貴族たち。
戦が起きやしないか、税が重くなりやしないかと気を揉む民草。
国の興亡はたかだか数百年の内、闇の王にしてみれば瞬きばかりの時間。

何をか気にせん。何をか気に病まん。
人の興した国が永劫に続くとお思いか。明日全てが引っ繰り返らぬとは限らぬ。
人間という種が永久に続くと本当にお思いか。今夜のうちに月と太陽が入れ替わらぬと何故言い切れる。
闇の王の国に、人の子の王の椅子が真に存在するとでも――?

人々が活気を取り戻していく中、ディトリッシュは一人捉われる。
熱を持った腕が痛む。フィーリアの手は冷えていた。
冷えた手の感覚が遠のいていく。

「お加減は如何でしょうか」

思考を打ち切ったのは比較的軽症の兵。
まだ少年と呼んでも差し支えない年頃だ。砂まみれになった顔をじっとディトリッシュに向ける。

「いや、大事ない」

不覚をとったことよりも血を失ったことの方が心情的に負担だった。
これでまた喉が渇くかもしれないのだから。

「それは、ようございました。負傷されたとお聞きしましたので」

兵士の少年は安堵した風情で顔を綻ばせる。
まだあどけなさが残る笑み。はて、自分はこの少年に気にされる覚えはあっただろうか、と考え込む。
少年は気恥ずかしげに目を逸らした。

「自分は、あの時ディトリッシュ様をお助けに参りました内の一人です」

得心する。フィーリアの楯になって人狼と戦っていた時のことだ。
打ち合うこと数合、徐々にディトリッシュは劣勢に傾き始めていた。
騎士に率いられた隊が現れ加勢したところで、多勢に無勢を悟った人狼は引き上げて行ったのだ。

「そうか。ご苦労だった。そなたたちの働きで私も助かったぞ」

「いえ、自分は、その足が、竦んで……」

純朴な顔を真っ赤に染めて、少年は申し訳なさそうに俯く。
愚直なまでの正直さにディトリッシュは苦笑した。
初陣を振り返れば、誰しもが彼を臆病者と謗ることはできないと悟る。

「戦は初めてか」

「は、はい。ああ、あんな、でかい人狼を見たのも初めてで、その、怖くて…。
でも、ディトリッシュ様はすごいです。一人であんな化け物と戦っていて。
皆言っています。まるで昔話の聖騎士様のようだって――」

「私が、か?」

皮肉、かと一瞬思った。
私が、闇の血を半分でも引いた男が、あまつさえ黒貴族の息子がだ。
この凄惨な殺し合いを画策した者の血を引く者が英雄の現身など何の冗談かと思う。
この少年とて、城内で実しやかさに囁かれる噂を知らぬはずあるまいに。
曰く、騎士ディトリッシュは黒貴族の落胤であると――。
少し前までは下火になっていた噂も黒貴族の宣戦布告と共に息を吹き返し始めた。
肌で感じるのだ。同輩の騎士、城の兵士や侍女の視線に針のような鋭さが加わり、
日ごとにそれが不安や恐怖へと色を変え始めていることに。

「あまり持ち上げるでない。城には真に聖騎士を祖とする方たちがおわすのだぞ」

しかし、少年の言葉に他意は無い。ディトリッシュは鷹揚に答える。
噂の類も、城内の空気も気にし過ぎといえばその通りなのだ。
元よりディトリッシュが如何に功を立てようとも敵視する者はいたし、
逆に当初から親しげに話しかけてくる者も居たのだ。

「ははあ、失礼しました…!」

「お前も功を立てれば騎士に取りたてられるやもしれぬぞ。励めよ」

「い、いいえ…。俺など! しがない農民の次男坊で……!」

「騎士王とて生まれも知れぬ流浪の青年であったのだ。
それが部族をまとめ、黒貴族を滅ぼし、国をうち立てるまでになったのだぞ。お前も知っていよう」

「お、お戯れは……」

軽く笑ってディトリッシュは踵を返した。
軽い意趣返しの言葉は、そのままディトリッシュに戻ってくる。
聖騎士、騎士王。古の英雄は、何故闇の王に立ち向かえたのか。
法に則った槍試合でも無く、人の定めた理の内にある戦でも無い、ただの殺し合いで、
負ければ一族郎党が皆殺しに、命は保たれたとしても奴隷として一生鎖に繋がれた生を送る。

恐ろしくはなかったのか。
ディトリッシュは恐ろしい。本音を漏らせば、これで父の気が済んでくれていたらとさえ思う。
何故今なのだろう。あのまま微睡みを繰り返していれば良かっただろうに。
こうして僕たちと剣を交わすことに何のためらいも無い。が、父を目の前にしたらどうか。
恐らく、体が竦む。

フィーリアは、どうだろう。初めて突きつけられた殺意の刃は彼女の心に何をもたらしたのか。
本当は今すぐにでも駆け寄りたいが、騎士として聞き入れられるのは命令の言葉のみ。
和解した侍女や、執政官に労わられているのか。
フィーリアは、何を思うのだろう。



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