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遮る物が何もない中庭は太陽の光が一段と強い心地がした。
ほんの半年前には、一年中太陽が昇らない地に居た所為もあってか、未だに太陽が心地よいという感覚が掴めない。
日光浴と称して半裸になる若い騎士たちもいるが、ディトリッシュはそれを遠巻きに眺めるばかりだった。
夏の熱い日など焼け付くような気さえする。自身にも半分人間の血が流れているだけあってか、
大概の人間の習俗には抵抗なく馴染むことが出来たが、こればかりは別だった。

ディトリッシュは手をかざし日光を遮る。聖誕祭も過ぎ、季節は秋を迎える。
日も短くなり風も涼しくなって、過ごしやすい気候が続いていたが、
昼の間はまだ彼にしてみれば快適とは言い難い。しかし最近はこの突き抜けるような青空も悪くないと思い始めていた。
彼自身も自分の心境の変化に驚いていた。昼が短くなることを歓迎こそすれ、惜しむことなど無いと思っていた。

ディトリッシュは手持無沙汰に中庭を歩く。
よく手入れされた生垣が視界を阻む。パーティーに飽きた男女がここで逢瀬を楽しむのだと云う。
バラのアーチは丁度秋のバラが大きな蕾を付けている。
毎年咲くこの花のアーチを一番最初に潜るのがフィーリアのささやかな特権だった。
王女の柔肌が傷つかぬよう綺麗に棘が取り除かれている。庭師の気遣いが表れていた。
触れることも、ましてや潜ることも不敬のように思え、ディトリッシュはそっと背を向ける。
丁度侍女が彼を呼びに来た所だった。

「こちらにいらしたのですね。お茶の準備が整いましたわ」

生垣の影からエクレールがひょっこりと顔を出す。働き者の侍女は一礼してすぐに踵を返した。
気配が近づいてくることには少し前から気が付いていた。
慌ただしく駆けてくる後ろで控えめについてくる気配のことも。
まあ、とエクレールは声を上げる。青いドレスをまとった少女と顔を合わせたのだ。
淑やかな格好に似あわずフィーリアは行動的だ。臣下に対し、自ら迎えに出向いた。

「ごめんなさい。待たせてしまって」

フィーリアの視線はエクレールを通り越して、真っ直ぐにこちらへ向かう。
フィーリアの微笑みは、花が咲くようにその場を彩る。
けれども、今はどこか夢見心地でほうと溜息を漏らしそうになるほど蕩けそうな表情をしていた。
それでも見る者に不埒な考えを抱かせないのは、少女らしい初々しさの所為であろう。

「いいえ。こうしてお出迎え下さったのですから。私は果報者です」

フィーリアははにかんだような笑みを浮かべ、さり気なく視線を外した。
頬の赤みが増し、目が潤んでいる。何か言葉を紡ごうと口を開きかけたが、躊躇いがちに唇を結んでしまう。
一つ一つの仕草を観ていると、本当にこの少女が日々政敵と玉座を争っているのかわからなくなる。
雰囲気を察したのか、エクレールは一足先に館へ戻って行ってしまう。
視界の遮られた生垣の中に王女と騎士だけが残された。

「こうして話すのは久しぶりね」

フィーリアは喜びを隠せない声色で話しかけた。
本当にわからなくなる、とディトリッシュは改めて思った。
年頃の娘が若い男と二人きり、その上その男は人ではない人類の敵と称される者。
しかしフィーリアは警戒など一欠けらもしていない風情で微笑みかけてくる。
長年親しく時間を重ねてきた者と同じように、純粋な信頼と愛情を向けて。

「貴方と会えるのを楽しみにしていたのよ」

淡い恋のような慕情だった。
政治の世界から遠ざけられていた少女にとって、玉座を争うということは孤独な戦いを強いられることだった。
女だというだけで不当な評価を下され、資質には常に疑惑の目が向けられている中、
味方となってくれる者を無条件で信頼し受け入れてしまうのは自然な流れだった。
その性質は時に悪しき者を呼び込み、見え透いた罠に足を踏み入れてしまうこともあった。
だが年相応の浅はかさを愚かと言い切ってしまうのは、余りにも酷である。

「私もです。殿下」

こうした些細な言葉に心底嬉しそうな表情をするフィーリアを、王たる器ではないと切り捨ててしまいたくは無かった。
騎士としての誇りを重んずるならば、当に見限っていなければならない。かつて父であった男にそうしたように。
これは情だ。無条件に振り分けられた愛情が、他の者よりも少しばかり大きく育ってしまった。
それを手放しくたいと情愛に飢えた己が訴えているのだ。

「今日はたくさんお話ししましょうね」

先ほどとは違って青い瞳を真っ直ぐに向けてくる。汚れの無い青だ。
彼女の耳元で親しき者が囁けば、私欲の為に容易く王権を振るわせることが叶うだろう。
彼女の慕う若い騎士が熱を込めて愛の言葉を吐けば、フィーリアはその男を王にしてしまうかもしれない。
国にとっての凶事が未だ起こらないのは、奇跡的に周囲の者たちが良心と分別を持ち合わせているからに過ぎない。
フィーリアと褥を共にしたことも、ましてや触れたことすらない己でさえも、
今ここで唇を重ね愛情と忠誠を捧げる真似事をしさえすれば、フィーリアを容易く傀儡とすることが出来る。
そうした不穏な確信を抱いていた。ひとえにそれをしないのは、フィーリアの心を裏切りたくなかったからだ。

「では、どのようなお話をご所望ですか」

「何でもいいのよ。貴方の声を聞いているだけで幸せなの」

これほどまで危うい性質となってしまったのは、フィーリアもまた孤独を恐れ、情愛に飢えていたからだ。
いつのころからか、同じところがばかりが目に付くようになってしまった。
ディトリッシュは少し昔を思い出した。











生まれ育った地を離れ一人で生きていく事を決めた時、身の回りの不自由はおろか貧窮も覚悟していた。
正直途方に暮れていたのだ。自由を手に入れた喜びよりも、何をすべきか見当たらない不安の方が大きい。
父の呪縛から逃れ最初に手に入れたのは途方も無い空虚だった。
鎖だと思っていたそれは、実のところ己と支柱を結びつける要だったのではないか。
そんな恐ろしい想像も頭によぎっていた。

転機は突然現れた。
黒貴族の執政官が遍歴の騎士をやっているという噂を聞きつけた者が、召し抱えの話を持って来たのだ。
何ぞ物好きな人間がいたものだと話を聞けば、剣の誓約の際に顔を合わせた王女だという。

これには驚いたが同時に興味も湧いた。
闇の者を恐れ嫌悪してしかるべきの王家の娘が、こともあろうに黒貴族の執政だった男の力を欲している。
周囲の圧力に怯えるばかりのか細い王女が、実は豪胆な精神の持ち主だったのか。
純粋な好奇心だった。

何よりも、あの父の力を退けた英雄の末裔という肩書に強く惹かれた。
人間の身でありながら闇の王を打ち破るという偉業を成し遂げた男。
他の闇の者と同様畏怖を感じながらも、父の支配を打ち破ったことに対する敬意と羨望を抱いていた。
その騎士王を身近に感じられることはこの上なく魅力的に映った。
人間の中で生活することに迷いは感じたが、結局その話を受けた。

しかし蓋を開けてみれば、騎士王の裔の王女はやはり華奢な娘でしかなかった。

正直失望した。
事あるごとに執政官の顔色を窺う姿は、騎士の主の像に程遠かった。
物慣れない所作と卑屈にさえ感じられる控えめさは、不甲斐無いの一言だった。
嫁入りを控える娘であればそれでもよいだろう。だが玉座は荷が重すぎる。

赤子が獅子に挑むようなものだった。
王の試練において、王女が勝っているものと云えば血筋だけ。前評判は完全に正しかった。
紹介を受けて型通りの挨拶をしながら、内心では長くはもたないだろうと見切りをつけた。
しかし何はともあれ己で選んだ主には変わらない。
王女が責任を果たす限り、忠実な騎士であるよう努力はしようと決めた。

その時だった。
思えば全てが変わったのはこの時だったのかもしれない。
歴史の流れを決める出来事のきっかけも大概は些細なことであっただろう。
同じく型通りの言葉しか言わなかったフィーリアが、玉座から立ち上がった。
そのままドレスの裾を手に、ゆっくりと階を下りていく。
執政官が驚くのを尻目にフィーリアは目の前に立った。

「遠路はるばる大変でしたでしょう。剣の誓約の時はおもてなしが出来ず申し訳ありませんでした」

「……いいえ。私の方こそ人の儀礼に疎いゆえ無作法な振る舞いを」

一瞬面を喰らう。お立ち下さい、と言われ躊躇いながらも従った。
目の前に立つフィーリアは思った以上に小柄で華奢だった。
仔猫が親猫を見上げるような仕草で、表情に親愛をにじませながら柔らかく微笑んでいる。
侍女がはらはらとした様子で見守っているのを視界の隅で捉えた。

「種族のことでご不快に思われることも在ると存じますが、
貴方が心安らかに過ごせるよう、騎士の主として精一杯力を尽くします」

「お心遣い痛み入ります。私も微力を尽くす所存です」

不意に冷えた手が包まれる。
フィーリアは親しい者にするよう手を取った。労働を知らない手は柔らかく滑らかだ。
しかし何故こうも躊躇わないのか。恐ろしくは無いのだろうか。
先ほどまで玉座に固い表情で座っていた人物と同じとは思えないほど迷いが無かった。
澄んだ青い瞳には己の困惑した表情が映る。華やかな黄金色の髪がほんのり色づいた頬に触れる。
この時初めてフィーリアの顔を見たような気がした。

「今の私にはこうして感謝を表すことしかできません。
私のような不甲斐無い女を主に選んでくれて、本当にありがとう」

一連の動作が純粋な好意と感謝での表れであると遅れて理解する。
不思議な感情が湧きあがった。焦燥と、よく知っている苦汁の味。
本来従えるべき騎士にこのようなことを言ってはならない。
それも内心では王女を見くびっていた者に。
こんな男に弱味を見せるような真似をしてはならないのだ。
傍らの執政官の表情に苦々しげなものが混ざる。

ああこの少女は本当に善意と無知の塊のようなものなのだ。

これは憐みだろうか。形容しがたい感情が襲った。
先ほどまで冷めた気持ちで見ていた少女に何故こんな感情が湧くのか自答する。
何故なら、少女の行く道は茨の道だった。
茨の棘は柔らかな絹のような心を容赦なく切り裂いていく。それが王族の責務なのか。

「殿下、そろそろ……」

執政官に促されて謁見は終わりを告げる。
踵を返して玉座に背を向ける。しばらくするとと彼らの囁く声が耳に入って来た。

『殿下、騎士たちに心を配るのは結構ですがあまりにも懇意になさるのはいかがかと存じます。
あくまで殿下は主たる方。ましてや彼は闇の者で――』

『姫様はお優しい方なのです。それにあの方を推薦なさったのは執政官殿じゃないですか。
そもそも人間の宰相だって忠誠なんて誓いやしないんだから、
闇の者でも姫様のお味方になって下さる方が全然マシですわ』

『親しみも過ぎると侮られます。時に優しさは、与えられる者へおもねるように見えるのです。
殿下はただでさえ王女であられるお方。お父上や兄上様以上に気を配る必要がございます』

『貴方はまたそうやって姫様のお心を無視なさる――!』

侍女の声が少し大きくなったところで謁見の間の扉が閉まる。
扉を守る衛兵の視線を強く感じる。早くどこかに行ってくれと怯えと共に訴えていた。

『いいのエクレール。ヴィンフリートは私のことを心配してくれているのよ。
ごめんなさいね、ヴィンフリート。これからは気を付けるわね。
何も知らないで本当にごめんなさい。私、もっとしっかりするわ。だから――』

喧嘩はしないで。

努めて明るい仲裁の声は、どこか泣いているように聞こえた。
冷たく不快なものが喉の奥に流れ込む。これから先、フィーリアの心は確実に磨り減っていくだろう。
触れた手の暖かさと柔らかな微笑みを思い出す。
父親さえ生きていれば、兄さえ居れば、平和な時代であれば、愛らしく心優しい少女のままで居られただろうに。

これはただの憐みだろうか。

ともかくも、かみ砕けないものを飲み込んだまま王女の騎士としての生活が始まった。




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