プレゼント



「綺麗ね」

本当に綺麗。言葉に出すまでも無く、青い宝石はこの世に二つとない輝きを放っている。
千里の瞳。その名の通り千里を見通す力があると云う。
フィーリアの目には貴婦人の胸元を飾る首飾りとして映る。
彼は何を思ってこの宝を贈ったのだろうか。人間の範疇に無い男を常識で捉えるのは難しいかもしれない。
黒貴族と恐れられる吸血鬼はお近づきの印に、と嘯いていたが果たしてそれだけだろうか。

遠い遥か彼方。永遠の夜の世界マンハイム。闇の王の居城はそこにある。
窓の外の空はどこまでも青く、夜の世界の存在など信じられないくらいだ。
フィーリアは再び青い宝石に目を移す。千里を見通す宝物。
それが本当ならば、夜の世界どころか黒貴族その人の真意さえ窺えてしまうのではないか。
何て事を考えているのかしら。フィーリアはすぐさま浅ましい思いつきを打ち消す。
仮にも友人となった人の心を不躾に覗くなど。

(ああ、嫌だわ。私ったらはしたない)

だが、と一方では未練がましくその考えにぶら下がる。
使いこなすことができるのならば魅力的だ。心を覗きたいと思った人物は、こと試練が始まってからは、
両手では足りないくらいだ。どいつもこいつも腹に一物抱えて、本心など見せやしない。
わかってる。政治の世界ならばそれは当たり前。そもそも政治でなくとも、人は中々他人に心を開かない。
皆、臆病だ。騎士も貴族も、王女も侍女も。皆、臆病なのだ。
フィーリアが政治の世界に立ってわかったのは、人間が如何に愚かで弱い存在であるかだ。

(だから、なのかしら?)

人間ではない者に惹かれるのは。
冷酷で気まぐれで、同胞さえも自らの楽しみの為に踏み躙る男を受け入れたのは。
彼は闇の王。騎士王の宿敵、彼の者の討滅こそがターブルロンドの王の悲願。
そして弱き人間ではなく強き吸血鬼。恐らくあの男は他人の顔色など窺わない。
腹芸など必要とせず、己の望みは己の手で叶え、他者の憎悪や妬みなど歯牙にもかけぬだろう。
まさしく覇者のそれ。それに眩しさを覚えるのはいけないことなのだろうか。

「私、疲れているのかしら…?」

声に出してみると、尚のことそう思えた。
よくよく考えてみれば王の試練も半分が過ぎてしまった。思えばあっという間だった。
しなければならないこと、覚えなければならないことが山積みで、
政治学や帝王学などと無縁でいたフィーリアはほとんど実地で身に付けてきたようなものだ。
ほんの半年前まで深窓の王女でいたことが自分でも信じられない。
だが忙しいばかりでなく喜びもあった。認められ褒められるのは嬉しかったし、
見ず知らずの国に嫁に出される日をおっかなびっくり待つよりは、ずっと充実した日々だった。
だからか、疲れていたことに気が付かなかったのかもしれない。

やはり疲れているのだろう。でなければ黒貴族などを友として受け入れられるわけがない。
確かに自分でも正気の沙汰ではないと少し思ってしまった。
父祖の仇敵であるというのに。ごく自然に受け入れてしまったのだ。

(お友達か。あら? そう言えば私って……)

まともに友人が出来たのはアストラッド以来ではなかろうか。
領主たちの中でも懇意にしている者はいるが政治的な意味合いが強い。
純粋な意味で友情を育むには利益が絡みすぎている。
しかし、と前言を撤回する。フィーリアはふうと溜息を吐いた。
やはり疲れているのだろうか。自身の体調を危ぶむ。黒貴族がまともな友人なはずがないのだ。
今この時も遠い空の下で彼の配下が決闘を申し込んでいるだろう。人間社会の侵略と同義のそれを。
個人的な友誼と犠牲を伴う享楽を同時に満たそうとしているのが奇妙だ。

片手には剣を、片手には美しい宝石を。

やはりまともじゃない。けれども清々しい。根回しもご機嫌取りも必要としない強さがある。
何という禍々しい美しさか。まるでこの青い宝石のように惹きつけられる。
もう一度青い宝石に目を落とす。千里を見通す瞳。どんな恐ろしい光景を見ることになるのか。
あの男と同じ。深淵を覗き込むにも似た行為だ。

「あら姫様。また千里の瞳をご覧になってますの? よほどお気に召したのですわね」

ティーセットを片付けながらエクレールは苦笑する。
エクレールの淹れてくれるコクァール茶は美味しい。程よく甘く香りも芳醇だ。
もし明日断頭台の露に消えることになるならば、最後にエクレールの淹れてくれる茶を飲みたい。
何か重要な決め事をする時や自分を奮い立たせたい時にも世話になっている。

「先触れの方が参りましたわ。もうすぐお出でになるそうですよ」

それを、とフィーリアが眺めていた千里の瞳に視線を移す。

「お付けになりますか?」

複雑そうな表情で伺いを立てる。

「止めておくわ。ドレスもそれに合わせないとならないでしょうから」

千里の瞳を忠実な侍女の目から隠すかのようにしまう。
何故この宝物を見ていたかと云えば、その贈り主たる男が会いに来るからだ。
最早一度や二度のことではないというのに、出征前の騎士を見送るが如く重々しい。
壁一枚隔てた場所で、執政官が騎士や兵を待機させていることは知っている。
そんな彼らに、あの男の来訪を楽しみにしているということは口が裂けても言えない。
自分自身にさえ疲れていると言い訳しなければ、認められない感情の類だった。

しかし、フィーリアの心は素直だった。時が近づくにつれ弾んでいく。
今日は何を話そうか。何を話してくれるのか。楽しみでならない。ともすれば口元が緩んでしまう。
無理矢理顔を引き締めている所為で、随分と固い表情になっているだろう。
闇の王に相対する王女らしい表情になっているのが皮肉だ。
誰も不審に思わない。皆が真実を知ったら、どんな反応をするのだろう。

「いつも夕暮れ時にいらっしゃいますわね」

俄かに城内が慌ただしくなる。闇の王の来訪である。
上擦った門番の声と戦々恐々とする侍女たちの騒がしい足音。
窓からはオレンジ色の光が差し、純白のテーブルクロスを色鮮やかに染めている。

「人に置き換えて考えれば随分と早起きだわ。さあ、エクレール。お茶とお菓子をお願いね」





前から言おうと思っていたのだけど。カップを置いて前置きする。
中庭に差していた夕陽は紫色の帳へと変わり始めていた。多少の薄暗さを気にする者はいない。
黒貴族は深紅の瞳を興味深げに王女へ向けた。

「千里の瞳はとても美しいわね。千里を見通す力はどうあれ、とても好きよ。
ありがとう。きちんとお礼を言っていなかったから、今言わせてもらうわね」

恐ろしく整った美貌が愉快げな表情に変わる。

「気に入って貰えて良かった。あの首飾りも、元の持ち主よりも君の手の中にあった方が幸せだろう」

「そういうものかしら。王女より王の方が格が上でなくて?」

「首飾りの役目はご婦人の胸を飾ることさ。役目を果たせない道具は哀れでならない。
全うさせてやるのが慈悲と云うものだ」

誰かを揶揄しているのか。男の瞳の奥には隠しきれない嘲りの色が浮かんでいる。
「誰か」というわけではないのだろう。この男にとっては己以外の全てが道具に等しい。
フィーリアを友人と称しているが、黒貴族にとっての友人など大海に浮かんだ小島のようなもので、
波一つで埋もれてしまう儚い存在であるのだ。

(でも、不思議なものね)

この男の気分次第でどうとでも変わってしまう関係ではあるが、何故だか居心地がいい。
いずれ終わってしまうとわかりきっているからだろうか。
結末の見えないあやふやな関係であるよりも、ずっと安心できてしまう。
フィーリアはコクァール茶を一口飲んだ。ふと思う。エクレールと同じなのかもしれない。
絶対に離れない者と確実に去っていく者。二人は対極に位置しながら同じ線上にいる。

「ねえ、ヘルゼーエン」

フィーリアはその名を口にする。
名を呼ぶ時はいつも、少しの緊張と抑えられない好意が含まれる。
「何かな」と答える黒貴族の声は驚くほど優しげだった。

「私もあなたに贈り物をしたいのだけど。何がいいかしら?」

「君が私に?」

意外そうな顔をする。深紅の瞳をしきりに瞬かせている。

「ええ。千里の瞳のお返しに」

何がいいかしら、と重ねて問うとヘルゼーエンは神妙な顔をして考え込んでしまう。
そう難しいことだろうか。しかし、よくよく考えてみると数多の貢物を献上され、
山のような宝物を抱えた闇の王が、今さら敢えて欲する物など無いのかもしれない。
途方もなく長く生きた男が小娘一人の質問に悩まされる様は存外可愛らしいものがある。
たとえ人間社会に戦いを仕掛けている闇の者であったとしても。

「そんなに難しい質問だったかしら?」

「ああ、すまない。君のような子から贈り物を貰うのは随分と久しぶりでね」

「いつもあげる側だったのでしょ?」

「言われてみればそうだったな。中々貴重な体験だ。
私へのプレゼントは君のセンスに任せるよ。正直自分でも欲しいという物が思い当たらない」

「まあ、それでは困ってしまうわ」

「君の気持ちがこもったものならば何でも受け取るさ」

嘘ばっかり。ぷいと顔を逸らすと黒貴族はさも可笑しそうに笑った。

「本当だよ。阿りの貢物には飽いていた所だ。
つまらぬ輩の献上品より、可愛らしい王女殿下からのささやかな感謝の印の方が私の心も満たされる」

目の前の小娘が敵方の総大将であることを忘れたような言い草だった。
少しむっとする。どこまで取るに足らない小娘と思っていれば気が済むのか。
フィーリアはその青い瞳に挑むような光を乗せる。黒貴族の深紅の瞳が興味深げに閃いた。

「そんなこと言って、私が毒でも仕込んだらどうするの?
闇の王が小娘一人の毒に斃れたなんて、後世の笑いものよ」

男は声を立てて笑う。

「そう宣言されてはな。暗殺の意味がないではないか。
君は思った以上、君のご先祖様によく似ているようだ。さすが騎士王の裔といったところか」

何をどう絡んでも、体よくあしらわれてしまう。
生きてきた年数の違いなのか。だとしたら、ちょっとやそっとじゃ飛び越えることはできない。
何せ相手は二百年以上生きている吸血鬼なのだ。

「それは、褒めているのかしら?」

「勿論だとも。君が贈り物に毒を仕込むなら、その毒ごと頂いておこう。
最も私が毒をあおるとは限らないがな。君が暗殺を駆使するのはまだ先のようだ」

フィーリアが芯からターブルロンドの王女ならば、
ここは内心で舌打ちしておかなければならない場面だろう。
心から民のことを思い、先祖の宿敵を憎み、その討滅を悲願としているならば。

「毒なんて贈りません。ちょっと言ってみただけよ。
とにかく楽しみにしててね。きっとあなたを喜ばせてみせるから」




お茶会から二週間が発った。慌ただしい日々が続いている。。
その間も政務は山のようにフィーリアに圧し掛かったし、黒貴族の侵攻は依然として続いていた。
かろうじてグリューネベルクは膝を屈していないが、時間の問題かと思われていた。
二十年前の侵攻のような戦争ではなく、制約に則った儀礼的な戦いである為か、
住人は以前よりも大分楽観的であるらしい。執政官の報告にはそうあった。
ともあれフィーリアにとっては遠い領地での出来事。伝聞でしか様子はわからない。

それに王女としては不謹慎にも甚だしいが、それよりもずっと気になることがあった。
あの男と約束したお返しを贈るという話。つい先日、その「贈り物」が手紙と共にマンハイムへ発った。
早馬で発った為、早ければ今日か明日にでも着く。

もう「贈り物」は届いただろうか。幼い子供のように胸が高鳴るのを抑えられない。
例えるならば、悪戯を仕掛け、誰かが引っ掛かるのを今か今かと待つ瞬間。
あの高揚感と緊張感が絶え間なくフィーリアに襲ってくる。堪らない。
あの人はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。それとも――。
ありとあらゆる想像が脳裏を掠めていく。中々政務に集中できないのはこの所為だった。

「エクレール。休憩にするわ。お茶を淹れてちょうだい」

フィーリアは諦めて羽ペンを置いた。
側で控えていたエクレールが待ってましたと言わんばかりに足早に退室する。
ふう、と息を吐く。背もたれに体を預け、ぼんやりと天井のシャンデリアを眺める。
こうしていても考えることは「贈り物」のことだけだった。
他の誰にプレゼントする以上に、考えに考えて選んだ「もの」だ。気に入ってくれるはずだ。
気に入らなくとも、その口で何でも嬉しいと言ったのだから、否が応にも喜んでもらう。

「失礼いたします。殿下」

考え事が途切れる。耳に馴染んだ執政官の声がフィーリアを現実に引き戻した。
融通の利かなそうな顔をしているのはいつも通りだが、心なしか常より蒼褪めている風に見える。
ヴィンフリートは開口一番に彼にとっては悪い報せを口にした。

「黒貴族が挑戦を受けたそうです」

やった。フィーリアは胸の内で快哉を叫んだ。贈り物はしっかりと受け取って貰ったのだ。
執政官の前では自重し、精々動揺を隠す王女らしく見えるよう「そう」とだけ返事をした。

「そして先ほど黒貴族の使者が参りました。…殿下に“礼状”だそうです」

ふざけているのかと憤りを隠せないヴィンフリートを尻目にフィーリアは口元を抑えて笑う。
礼状! これほど早く、まだ昼の明るい内に届けて来るとは!
フィーリアは可笑しくて堪らなかった。決闘は慣例により次の週になるはずだ。
まだ槍の穂先を相手に向けてすらいないというのに。気の早いことだ。それほど相手が気に入ったのか。
それもそのはず。強く、血を好み、何よりもぎらぎらとした殺気に満ち溢れた騎士を選んだのだ。
彼の退屈な時間を血と戦いで彩る為に。彼を真に喜ばせる為にも。

「ご苦労様。結果は追って伝えてちょうだい」

フィーリアはさり気なく執政官の手から礼状を奪う。
ヴィンフリートは黒貴族へ敵意を新たにし退室する。丁度入れ替わるようにエクレールがやって来る。

「あら姫様、何か嬉しいことでもございました?」

隠してもエクレールにはわかってしまうようだ。悪戯っぽく肩を竦め、微笑んだ。
目の前にコクァール茶と菓子置かれ、執務室内に甘い香りが充満する。
フィーリアの浮かれた様子を見て、エクレールは心得たように速やかに退室する。
コクァール茶を一口飲み一息入れる。熱に浮かされていた頭がじわじわと落ち着きを取り戻していく。

結局こういう付き合い方しかできないのかもしれない。フィーリアは“友人”のことを思った。
終わりが約束されている関係、捕食者と非捕食者の奇妙な交わり。
ならば楽しもう。今この時を。こうして友人でいられる間だけでも。

(私も大分毒されてしまったわね)

フィーリアは礼状の封を切った。

親愛なるフィーリアへ

フィーリアは今度こそ声を上げて笑った。



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