愛しい愛しい女王陛下



無能。穀潰し。役立たず。全て言われ慣れている。
物心つく頃には既に代名詞となってしまっていたからだ。
かと云って悲しくないわけでも、悔しくないわけでもない。
気の弱さを優しさと受け止めてくれる周囲の暖かさが無ければ、当に世を儚んでいたかもしれない。
親兄弟も使用人も何故か皆優しかった。子供の内ならばそれでも良かった。

しかし、大人になってしまえばそうも言ってられない。
自分の食い扶持は自分で稼がなければならない。遍歴の騎士となったのもその為だった。
得体の知れない同業者に騙されかけたことで、実家の商売からも遠ざけられてしまったこともあった。
お前は何もしなくてもいい。これまた何度も投げかけられた言葉だった。
何もしないことは確かに平和だった。だが、これほど苦痛な時間も無かった。

誰かの役に立ちたい。

実家の倉庫から先祖伝来の甲冑と槍を持ち出し、何とか主君に――それも王女殿下に仕えることはできた。
けれども、役立たずは何処へ行っても役立たずで、碌に任務も果たせぬまま、
気が付いたら王の試練は終わっていた。結局したことと云えば、同僚の足を引っ張ったくらいなものだ。

そんな自分がまさか――。

「ウィレム。会いたかったわ」

柔らかい体が自分の薄い胸に押し付けられる。
甘い匂いが夢見心地にさせる。これは夢じゃないかなあ、と呆けた顔で首を傾げる。
だがすぐに豊かな金色の髪があごをくすぐり、現実に引き戻された。

「ぼ、僕も会いたかったです。ああ、陛下……」

思いつくのは月並みな返事ばかり。これがもしエヴァンジルやグイードだったら、
ご婦人の喜ぶ言葉を雨あられの如く浴びせることができるのだろう。
本当に、何て、気が利かない男だ。自己嫌悪ばかりが襲ってくる。
久しぶりに敢えて嬉しくないはずがない。この喜びを伝えたくて仕方が無いのに満足に呂律がまわらない。
そうこうしている間に、フィーリアは離れてしまう。

「散歩でもしましょう。久しぶりにあなたと並んで歩きたいわ」

こんな気の利かない男に全てを心得た風に慈愛に満ちた笑みをくれる。
春の陽光のような笑みは緊張を解かすばかりか、安らぎを通り越して夢見心地にさせた。
それというのも、フィーリアはいつもいい匂いがするからだ。
品のある香り。強すぎず自己主張するでもなく、さりげなく漂いフィーリアを彩っている。
強く抱きしめたらもっといい匂いがするんだろうな、といつも思いながら、結局実行するに至っていない。
先日ようやく手を繋ぐことができたばかりだ。己の不甲斐無さに本当に涙が出てきそうだ。
フィーリアの手は柔らかくて滑らかで気持ち良くて、感動のあまり声が出なかった。
思い出すだけでも天にも昇る気持ちだ。

「ウィレム。ウィレム!」

うっとりとした気分でフィーリアの声を聞く。何て可愛らしい声なのだろう。
今も王の試練の最中も、フィーリアはその声で叱責するのではなく、いつも優しく励ましてくれた。
あの時の言葉は何度も頭の中で反芻し、そらんじることだってできる。
実際に頭の中でそらんじた結果、石に躓いて転んでしまった。
土煙が舞うほど強かに転び、痛みに呻くことになる。
フィーリアの警告虚しく、醜態をさらすことになったのだ。
フィーリアはドレスを翻し、慌てて駆け寄った。

「ウィレム! 大丈夫!?」

「は、はい……。すいません…」

「まあ、大変! 血が出てるわ! 急いで消毒しましょう!」

フィーリアは速やかに人を呼ぶ。血を忌避するわけでも、慌てふためくわけでもない。
手際よく指示を出すフィーリアは女王の貫録が身に付き始めている。
頼もしい背中に誇らしい気分になる。これがターブルロンドの若き女王。
美しく聡明で、屈強な騎士を束ねる凛々しい女王陛下。
同じ時代に生まれたことを騎士王に感謝したくなるほどの御方。
僕のフィーリア様。そして恋人でもある人――。こんな弱々しく頼りない自分の。
本当に、本当に畏れ多いこと。

手当てを受けながらこの国で最も尊い身分の恋人を眺める。
フィーリアは心配そうに目を細めている。
本当なら今頃は二人でゆっくり茶を飲んで、離れていた間の時間を埋めていた頃だろうに。
またもフィーリアの顔を曇らせてしまった。前回は執政官に叱責され逢瀬の時間に遅れてしまった。
気にしないで、とフィーリアは言うも情けなくてならなかった。
騎士として役に立てないと云うならば、恋人としてお心を慰めて差し上げたいのに。

「私も手当の方を習おうかしら。ウィレムったらいつも生傷が絶えないんですもの」

口元を抑えてくすくすと笑った。手当が終わり、使用人がそそくさと離れていく。

「そ、そんな…! フィーリア様にそんなことさせられません!」

「でも、その分一緒に居られるでしょ。
ウィレムの怪我はおっちょこちょいが原因のこともあるけれど、
必死に努力した結果であることも、私知っているのよ? “そんなこと”なんかじゃないわ。
ウィレムは本当に頑張り屋さんですもの」

「フィーリア様……」

目頭が熱くなる。努力を認めてくれるのはいつもフィーリアだ。
どれほど失敗しても、周りを失望させても、フィーリアだけはいつも見守っていてくれる。
それだけで騎士王の加護にも匹敵する。何物にも代え難い加護を得た気分だ。
この人の為だったら命なんて惜しくない。最愛の御方。
じっと瞳を見つめれば、可愛らしく首を傾げる。

「フィーリア様は僕の何処が好きなんですか?」

「あら、急にどうしたの?」

「僕よりも強くて頼りがいがあって見目麗しい方ならたくさんいますし。
僕は、頭も悪いし鈍臭いし、身分だって高いわけでもないし…。
それにフィーリア様のお立場でしたら、どんな人でもお側に置くことができますし…」

自分で言って悲しくなってくる。
フィーリアが並み居る騎士、領主の中から自分を選んでくれたのは奇跡にも等しい。
不釣り合いという言葉が可愛くなるほど天秤は一方的に傾き、地にめり込んでいる。
現に周囲から疑問の声は数多に渡っている。そしてそれを否定できる実力も気概も無い。
身分は保留中だった。たとえ相応の地位をくれてやっても何の働きも期待できない。
せいぜい小間使いがいいところだが、女王の想い人としてはあまりにも――。
しかし実の所は小間使いすら危うい。フィーリアの側に居られるならば何だっていいが、
邪魔者になるのは悲しいことだった。ウィレムは今執政官の元、修行中の身だった。

「ウィレムにはウィレムの良いところがあるわ。周りの言うことなんて気にしないでいいのよ」

「どんなところでしょう。正直言って僕にはさっぱり…」

沈黙。一拍置いた後、フィーリアはそれは綺麗な顔でにっこりと笑った。
それだけだった。

「あの…」

「ウィレムにはウィレムの良いところがあるわ」

先ほどと同じ言葉。
フィーリアを疑うことなんてしたくないが、もしかしてこれは誤魔化されようとしているのか。
いいや、そんなはずない。きっとこれは真剣に考えてくださっているからなのだ。
愛しい恋人を一片でも疑った自分を恥じる。でも―――。

「もう少し具体的に…」

フィーリアは再びにっこりと笑った。
しばらく経って、今度はしっかりした答えが返ってきた。

「とっても頑張り屋さんよ。少し方向を間違えてしまいがちだけれど。
それにとっても優しいわ。ウィレムの裏表の無い優しさ大好きよ。少し気が弱いところもあるけれど。
誰に対しても偉ぶらないわ。城の使用人は皆あなたのことを慕っているのよ。少し威厳が足りないけれど」

フィーリアはウィレムの手を取り、じっと正面から見据える。
美しい青い瞳には感動のあまり涙ぐんでいる少年の顔が映る。

「フィーリア様……」

「私は頑張っているあなたが大好きなのよ。
とっても可愛らしくて、ついつい時間を忘れて見入ってしまうくらいに。
まるで一生懸命回し車を回す小リスのようよ」

「ふぃ、フィーリア様……」

「そんなあなただから、側に居て欲しいと思ったのよ。
あなたの打算の無い優しさは私をいつも救ってくれるわ。
あなたが後ろで支えてくれているから、私は政治の世界を生きることができるの」

「ああ、フィーリア様……!」

思わずフィーリアを抱きしめる。細くて甘い匂いのする女の人の体を。
今度は夢見心地にはならぬよう必死に踏みとどまる。今度は自分から抱きしめられたのだから。

「僕はフィーリア様が大好きです。フィーリア様が望むのなら何だってします。
騎士として役に立たないなら、召使いや小間使いとしてでも仕えたいです!
僕は貴女の為だったら何だってできます。僕の全ては貴女のものです!
どうか、どうか、この先もお側に置いてください!」

「勿論よ。あなたこそ私の側から離れないでね。愛してるわ」

愛している、何て甘美な響き。ああ騎士王様。今なら死んでもいいです。
フィーリアの方からも抱きしめられる。こんな幸せがあっていいのか。
しかし幸せはいつも儚い。この逢瀬が終わってしまえば、またしばらく会えなくなってしまう。
離れがたい。抱きしめる腕に力を込める。それに合わせるようフィーリアの腕にも力が入る。
せめて親衛騎士であれば。でもこんな非力な腕では、夢のまた夢。
そうこんな非力な腕では――。

「あの、フィーリア様。く、苦しいです……」

「…あら、いやだわ。私ったら、つい…」

そうだ。フィーリアは騎士王の裔。直系たる女王。
しかも、試練の最中は来る決闘の日に備え、鍛練を怠らなかった。
この背骨を折らんばかりの力は、騎士の国の女王として必要不可欠なものなのだ。
ああ、でもこれでは、親衛騎士になっても逆に守られてしまうのではないか。
やはり腕力を付けなければ。もっともっとフィーリアの側にいる為に。
げほげほ、と咽ながら決意を新たにする。

「フィーリア様! 僕、頑張りますからね!」

「…? え、ええ。よくわからないけれど、その意気よ! ウィレム!」

背中を撫でるフィーリアの手はどこまでも優しかった。



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