乙女の祈り


今は朝?それとも夜? 昼夜を意識しなくなってどれくらいの時間が流れただろう。
豪奢なベッドの中でフィーリアは目を覚ました。
いつ晴れるとも知れぬ闇の中で、壁の蝋燭の火が頼りなく揺らめいている。
元より夜目の利く闇の者に灯りなど必要無い。これは人間であるフィーリアの為のみ。
誰が火を入れてくれたのか。フィーリアは思い出そうとするも叶わなかった。

時折、記憶が混濁する。
昔のことや王の試練のこと、まだロザーンジュに居た頃は労せず思い出すことができる。
混濁するのは全て最近になってからだ。数時間前に会った人や今自分が何をしていたのか、
まるで夢を見ていたかのようにあやふやになってしまう。
何故だろうか。考えるまでも無い、ともう一人のフィーリアが囁く。

これが“花嫁”になるということ。
意志の無い吸血鬼の僕になるということだから。人形に記憶は必要ない。
フィーリアはぼんやりと暗闇を見つめる。頭が痛い。喉も痛い。
風邪なのだろうか。そこまで考えて、眠りにつく前に自分が何をしていたのか思い出す。
反射的に首筋を抑えた。おそらくそこには牙の跡が生々しく残っている。
痛みは無い。いつも不思議だった。むしろ牙が肌に当る瞬間、恍惚とした感情を呼び起こす。
禁忌にも似た感覚は花嫁ならではのものなのだろうか。

ヘルゼーエン。
フィーリアは声に出さず自分の“夫”の名前を呼んだ。
どうして忘れてしまっていたのだろう。先ほどまで確かにこの閨で愛し合っていたはずなのに。
眉間に鋭い痛みが走り思わず額を抑える。頭痛が記憶の再現を妨げた。
上手く思い出せない。あの人の口づけは、抱きしめてくれた腕は――。
フィーリアは堪らなくなり寝台に体を投げ出す。

いつ頃からだろう。
自分自身がすり減っていく感覚。まるで自分が風化していくような。
砂となっていく傍らでもう一人の自分が顔を出している。
美しい彫像。生気のない人形が笑みを浮かべている。ぞっとするほど無垢な笑みだ。
これほど恐ろしいことがあろうか。もうすぐ自分は取って代わられてしまう。意志の無い人形に。
枕に顔を埋める。少しでも恐怖を紛らわせる為に。いずれこの恐怖も無くなってしまうのか。

(でも、それは――)

それはきっと、幸福なことなのだろう。
フィーリアは枕に顔を埋めたまま笑った。
わかっていたはずだ。あの男の花嫁になることがどういうことなのか。
頭が痛い。徐々に輪郭がぼやけていく。何を思って結婚式に臨んだのか最早思い出せない。
ただわかっているのは、結局短剣をあの男の心臓に突き立てることができなかったことだけ。
袖に隠した短剣の冷たい感触、そしてそれを震えながら握っていた自身の手。
明確に思い出せるのはそこまでであった。

(ごめんなさい)

心の中で謝罪をするのはもう何度目になるだろう。
裏切ってしまった。自分を愛し、支えてくれた人の全てに背を向けて人であることを止めた。
自分の願いを追い求めてしまった。それが罪ならば、自身の存在が消えゆくことが罰なのか。
いずれ懐かしい記憶も思い出せなくなってしまうのかもしれない。
優しい侍女の淹れてくれた茶の味も厳しい執政官の優しげな微笑みも。
彼らはきっと自分を責めている。何故むざむざと王女を敵の手に渡してしまったのかと。
違う。違うのだ。全ての批難や責めは私が追うべき。全ては己が望んだこと。

望んだこと。

フィーリアは愕然とした。何を願ったのか、何を望んだのか思い出せなかった。
刺すような痛みがフィーリアを苛む。シーツを握って痛みに耐える。
どれくらいの時間が流れたか。ようやく痛みが治まり、フィーリアは疲れ果てて眠ってしまった。

(ここに居たのね……)

夢の中でフィーリアは誰かと寄り添っていた。寒さをしのぐように身を寄せて。
何故だか無性に悲しくなりその誰かを抱きしめた。
しかし、抱きしめている感触は無く、実体のない霧を相手にしているようだった。
掴んでも離れていく。触れることも出来ない。だから寄り添うしかない。
何て可哀想。フィーリアは夢の中で泣いた。悲しい夢だった。

フィーリア。フィーリア。

優しげに名前を囁かれ、フィーリアは覚醒する。
目を開けると同時に頬が撫でられる。指先が唇に触れた。
この優しい手を一時でも我が物にする為にどれほどの犠牲を払ったことか。
フィーリアは身体を起こす。枕元には“夫”が目を細めて覗き込んでいる。
ヘルゼーエン、とか細い声で呼ぶ。

「魘されていたよ。可哀想に。一人にしてすまなかったね」

あやすように額に口づけする。フィーリアは歓喜に包まれた。
その指先が触れる度に、声を聞く度に、胸の内の空虚が満たされる。
しかし、知っている。己が徐々に狂わされていることも。
この男から離れている時間が渇きを覚えるほどに堪えがたい。
まだフィーリアが王女だった頃、この男とささやかな交わりを楽しんでいた頃、
その時も別れを切なくは思っていたが、もっと少女らしく甘い感情だった。
記憶に刻まれている。あれは確かに恋だった。フィーリアはこの残酷な男に恋をしていた。

それが今はどうだ。成就したはずの恋心は歪な情念へと変貌してしまった。
あの時のそれとは似ても似つかぬ感情。フィーリアは二つの恋情に引き裂かれそうだった。
フィーリアは男の深紅の瞳を覗き込む。さながらこの男が糧としてきた血の色にも似た。

「ごめんなさい。今は、昼? あなたを起こしてしまったかしら」

「可愛い花嫁が悪夢に苛まれているのだ。抱きしめ慰めるのが夫の役目であろう」

夫。この男から吐かれる言葉の白々しいこと。フィーリアは内心で笑う。
不意に頭痛が襲ってくる。痛みが頭の芯をギリギリと締め付けている。戒めが如く。
誤魔化すように男の腕に収まった。頭痛と共にやって来る溢れだしそうな安堵がフィーリアを包む。
無防備に他者へ身を預けられることが、どれほど幸せなことか。
鼓動が聞こえた。男の心臓の音だった。良かった、とフィーリアは心底そう思った。
止めることをしないで。滅ぼすことを諦めて。しばらく身を委ねていると頭痛が和らいでくる。
同時に意識が朦朧とする。フィーリアはこの感覚を知っていた。記憶がぼやける感覚だ。
また私がすり減っていく。ヘルゼーエン――! 縋る思いで男の名を呼ぶ。

「余程怖かったのだろう。安心していい。君の悪夢は現世には決して追って来ない」

夢。そう私は夢を見ていた。そしてこの男に慰められていた。
こんなことまで曖昧だなんて――。悲しみに浸る間もなく思考が白色に染まる。

「フィーリア?」

「悲しい、夢を見ていたの」

最早フィーリアは己が何を口走っているのか認識できなくなっていた。
“夫”の腕に収まったまま、悲しげに眉根を寄せた。

「あなたがいたの。でも、触れることも、抱きしめることも、できなかった」

ごめんなさい、とうわ言の様に呟く。

「あなたは夢の中でも、ずっと一人で、可哀想に。私が、いたのに、ごめんなさい」

戒めが解かれる。フィーリアは糸の切れた人形のように力無く座り込む。
フィーリアに意志が戻っていたら、男の瞳に宿った暗く残酷な影に、戦慄いていたかもしれない。
男は闇の王。人の子の下僕一人を八つ裂きにすることなど、赤子の手を捻るより容易い。
しかし男の胸には躊躇いがあった。ここでフィーリアを壊してしまえば、今度こそ本当に負けたことになる。
そして欲して止まなかった少女を永遠に失うことになるからだ。
意志を失いかけてもなお、人形になることをよしとせず、男を心から慈しみ愛してくれる少女を。
歪でありながら二人は愛し合っていた。

代わりに、フィーリアの口を己のそれで塞ぐ。
口内で舌を這わせると、待ち望んでいたかのように絡めてくる。
そのままフィーリアを寝台に押し倒す。首筋を唇でなぞり牙を立てた。
息を呑む気配が男にも伝わった。しかし体を強張らせたのは一瞬のことで、すぐに男に縋りついてきた。

「ああ、ヘルゼーエン――」

痛みを訴えっているでも、怯えているでもない。

「あなたに救いがありますように」

次に目覚める時も一人。混乱と孤独を抱え、祈りは夢の中でしか届かない。



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