坩堝




頭がおかしくなりそうだった。
絵具と汗と香水の香り、それに情交の残り香が加わり、室に瘴気のようなものが充満している。
まともな神経の持ち主ならば、一刻も早く窓を開けて、部屋の空気をそっくり入れ替えたいと思うだろう。
しかしエヴァンジルは無心に絵筆を動かすばかりで、スツールから動こうとしない。
絵描きに没頭している中、頭の片隅では元よりまともではないと自嘲する己がいた。
創作など狂気の沙汰と紙一重。物の是非など欠片も価値は無い。

この狂いそうなほどの瘴気に充てられ、エヴァンジルは益々創作の世界の没頭することができた。
退廃と狂気に蝕まれようが、それで傑作を生み出すことができるならば、喜んで人倫を踏みつけよう。
エヴァンジルは絵筆を持った瞬間から彼方の人だった。
上着を纏う手間すら惜しみ、肌を晒したままキャンバスに向かい合う様は、既に騎士ではない。
情交の余韻に浸る間もなく、女の肌を遠ざけ絵筆を握った。
残り香も睦言も、己の体に残る全ての余韻をキャンバスにぶちまけてしまいたかった。

魅入られている、とエヴァンジルは思った。モチーフとなった一人の女に。これほどまで。
フィーリアは美しい人だった。王女としても王としても申し分のない人だったと、
エヴァンジルは今でも断言できた。しかし、世は別の人間を王に選んだ。
フィーリアは王城を追放され、尊さを剥奪されてただ人に堕ちた。
しかし、フィーリアの美しさに翳りは無い。何者にも犯すことの出来ない不変のものだった。
これほどまで絵筆をとりたいと思ったことは他にない。

フィーリアはこの狂気の中ですやすやと寝息をたてている。
一人寝台に取り残されながら、つれない男を恨むでなく、心得た風にキャンバスの前の長椅子に横たわった。
一糸纏わぬ体をシーツで覆い隠して、誘うように絵に没頭する男を眺めていた。
しばらくして、疲れたのか目を閉じてしまう。
寝息をたてるに及んで、エヴァンジルはようやく彼女が眠ってしまったことに気が付いた。
慌てて毛布を掛けてやる。先ほどまで肌を重ねていた女性を気遣ってやれないなど、遊び人の名折れだ。
何よりフィーリアは寒い思いをしていただろう。エヴァンジルは己の没頭癖にため息を漏らす。

「ごめんね、フィーリア」

寝顔を見ていると愛おしさが募る。
可憐な唇を見ていると、先ほどの口づけの激しさを思い出す。無意識に手を伸ばすも中途で思いとどまる。
絵具まみれになった手でフィーリアに触れるわけにはいかない。
名残惜しく思いながらフィーリアの頬に口づけを落とす。眠り姫はくすぐったげに身を捩らせた。
こうした仕草は少女のままだった。閨ではあれほど奔放であるのにも関わらず――。
一事が万事この調子でエヴァンジルを離さない。どれが本当の顔なのだろう。
未だにエヴァンジルは真実の片鱗すら掴んでいなかった。

代わりにキャンパスに戻って、絵筆を握り続きを再開させた。
ふと手を止める。フィーリアの寝顔は変わらず安らかだった。
どんな夢を見ているのだろう。もし他の男の腕の中にいるならば嫉妬に狂ってしまいそうだ。
ふと大したものだと溜息を洩らす。夢の中にいながら男を悩ませ悶えさせるのだ。
まったく、フィーリアにはこのキャンバスは狭すぎるのかもしれない。

キャンパスの中のフィーリアは少女のように無垢なままであった。
悲しみも汚れも知らず、宝石と毛皮に守られた美しい王女。
後世彼女は何と伝えられるだろう。宰相に王位を奪われた悲劇の王女と哀れまれるか、
はたまた尊い騎士王の血を絶やした愚か者と謗られるか。
どちらにしろ歴史の表舞台を退いた王女に、作家の創作意欲を駆り立てるものはあれど、
後世の歴史家の知識欲を刺激するものはない。
だが絵画としてはどうか。この絵の少女は後世の人たちの目にどのように映るだろう。
きっと人々は想像し合う。彼女の身に何が起こったのか。彼女はどのように生きて死んだのか。
そうしていつまでも人々の記憶に残る。

モチーフをありのまま描き、その内面すらも写し取ってしまう魔術師のような絵描きも世間にはいる。
それが画家の至上の命題であるとする一派が存在していることも知っていた。
しかし、エヴァンジルはただありのまま写し取ることに価値を見いだせない。
絵はモチーフだけでなく、画家そのものを映し出す鏡でもある。
彼らが何を見たのか、彼らの心を動かしたものは何であったのか。
時代を越えて、彼らと語り合うことができるのだ。エヴァンジルは語りたかった。
フィーリアという人がどのように生きたのか。その美しさも余すところなく。

「エヴァ」

エヴァンジルの意識が引き戻される。
フィーリアが目を覚ましていた。ゆっくりと半身を起こして、甘える風に手を伸ばす。
彼女がエヴァと呼ぶのは閨の中だけであった。エヴァンジルは再び絵筆を置く。
フィーリアが寝そべっている長椅子に座り、愛おしげに寄り添う。

「もうすぐです。もうすぐあなたを描き終える」

「楽しみだわ。あなたの目に私はどう映っているのかしら。早く見たいわね」

フィーリアはエヴァンジルの手を取ろうとする。
汚れているから、とやんわりと遠ざけるエヴァンジルを振りきり、優しく撫でる。
愛撫にも似た指先の動きはエヴァンジルの脳髄を痺れさせた。
急き立てられるように引き寄せ、もう何度目かわからぬ口づけを重ねる。
離れては引き寄せ、唇を食み、啄んで、舌を弄ぶ。

「足りません」

毛布を剥がし、両の手を自身のそれで縫い付ける。フィーリアの白い手が赤や青に染まる。
濃くなる女の匂い。首筋に胸に顔を埋め、欲するまま味わう。

「たった一枚だけで、あなたを表現できるわけがない」

「エヴァ――」

翻弄されるまま声を洩らす。

「まだまだあなたを知りたい」

そう。だから許してくれ。
父祖から罰を与えられようが、シジェルの楽園を永遠に追放されることになっても構わない。
許しを請うのはフィーリアだけだ。あなたにさえ許して貰えればそれでいい。
乳房を掴み、吸い付くような感触に溺れる。儚げな甘い声が耳に響いた。
フィーリアの、解放された手がエヴァンジルの頭にまわる。
乱れたままの髪を丁寧に透き、首筋から頬を辿って唇に触れる。許されたのだと思った。
布越しの怒張した自身を柔らかな大腿に押し付け、ずっと許されるのを待っていた。
膝を割り自身の体をねじ込む。あられのない姿に興奮が助長し思考が白銀色に染まる。

「エヴァ」

フィーリア許してくれ。あなたを知らないとあなたを描けない。許して。許して。許して。
知りたい。刻みたい。刻み付けられたい。白い。キャンバス。閉じ込めたい。
見せつけたい。見せたくない。美しい。恐ろしい。離れたい。一つになりたい。
フィーリア――。

………。

目を覚ました時、フィーリアの姿は無かった。
夢だったのかと思った。長椅子から起き上がる。窓の外の景色は変わっていない。
力尽きたように眠ってから、さほど時間は経っていないように感じられた。
覚束ない足取りでキャンバスに戻る。大丈夫だった。変わらずフィーリアが微笑んでいる。

フィーリア。
次はどんなフィーリアを描こう。どんなドレスを着て貰おうか。憂いの表情も好い。
まだ完成していないのにも係わらず、もう次の作品のことが頭をよぎっていた。

「エヴァンジル」

背後から抱きしめられる。花の香りがした。袖口のレースが唇を掠める。
未だ素肌を晒したままのエヴァンジルとは対照的に既にドレスに着替えてしまっている。
良い香りのするフィーリアに頬を寄せた。
何となく置いていかれた気がして、何処に行っていたんだいと恨みがましく尋ねる。

「お湯を貰っていたの。気持ちよさそうに眠っていたから起こさなかったわ。ごめんなさいね」

「いいんだ、フィーリア。そんなことより手を見せてごらん」

エヴァンジルはフィーリアに向き直り、両の手を開かせる。
思った通り、様々な色の絵具が白い手を彩っていた。二人は顔を見合わせて笑った。

「お揃いね。エヴァンジル」

「この絵具はアルコールを使わないと取れないんだ。少し待って。取ってあげるから」

道具箱の中から小瓶を取り出し布に浸す。
フィーリアを長椅子に腰掛けさせ、白磁の手に布を滑らせる。
湧き上がる敬虔な気持ちは磁器人形や宝飾品を手入れしているかのようだ。

「くすぐったいわ」

「我慢して。すぐに終わるから、ね」

「はい」

「うん、良い返事だ」

しばらくは無言で汚れを落とすのに専念する。
かつてはこの可憐な指一本で領内の采配をしていたというのだから驚きだ。
傍から見れば苦労を知らない美しい手に見えるだろう。
しかし、この手には余人が及びつかないほどの苦悩を内包しているのだ。
フィーリア。エヴァンジルは胸中で名を呼ぶ。

オベルジーヌに夜毎に愛され、一人の他愛もない絵描きの崇拝を手にした王女。
フィーリアの心はどこにあるのだろう。触れたい。されどひどく恐ろしい。
あの慈しむように抱きしめてくれる腕の主は、人ではなくなっているのではないかと。

「フィーリア。この絵が完成しても、またあなたを描きにきてもいいかい?」

「構わないわ。でも、あなたの手は大丈夫なの?」

大丈夫、と即答する。
事実フィーリアを前に絵筆を握っている時は痛みを忘れてしまっていた。

「そう、良かった。オベルジーヌも心配していたわ。
そう言えば、今度あなたが絵を描いている姿を見たいって、可笑しな歌を歌っていたような――」

「何度も言うけどね、アレと一緒は死んでも嫌だよ。
何が悲しくてアイツの無駄に引き締まった体を見ないといけないんだい。
それに私はあなたを独り占めしたいんだ」

フィーリアは口元を抑えて楽しげに笑う。

「あなたにとって、私の絵を描くことは閨で愛し合うことと同じなのね」

はたと我に返る。指摘されるまで気づかなかった。
エヴァンジルはばつが悪そうに目を逸らした。
そうは言ってもあなただっていつも許してくれるじゃないか、と言いかけて止めた。

「私にとって、絵を描くことと愛することは同じさ」

そう告げると綺麗になった手に口づけをほどこした。




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