歩んでいくこと


ぎこちなさの残る新婚生活は、それでも幸せだった。
日々距離が縮まっているのを実感できた上、
恋した人を夫に迎えるという、一国の王故に叶わぬはずの願いを実現できたからだ。

互いにしがらみも多く、素直に愛情を伝え表すことが出来ぬ立場故に困難も多かった。
戯曲の様な敵味方別れての恋路、という派手なものではなく、
どこにでも転がっている、それこそ市井の恋人たちの間でさえも珍しくない小さな波風だった。

年齢差であったり、育ってきた環境、歩んできた道の違いから来る衝突であったり、
こと恋愛沙汰になると普段の果断さが鳴りを潜め、すっかりと奥手になってしまう気質であったり、
何とか大人になろうと背伸びをして自分だけでなく恋人すらも傷つけてしまう若さであったり。
それらを一つ一つ乗り越えて、ようやく妻となり、夫となった。

長い道のりだった、と嘆息するには早すぎると側近たちは嘆く。
特にエクレールは、若い乙女が熟年夫婦の境地に至ってはならない、と事あるごとにせっつく。
世の新婚夫婦のような蜜月を過ごすことに勿論憧れはある。
けれども、歳の離れた夫の愛情表現は、精緻なガラス細工の如く妻を庇護することであった。

夫であるヴァルターは、年若いながらも日々の政務に多忙を極める妻が、
穏やかな時間を過ごせるよう常に心を砕いてくれた。
勇猛で知られた騎士としては不釣り合いとも言える繊細を知れば、世の人は幻滅し嘲笑うかもしれない。
けれどもフィーリアは、ヴァルターの心細やかな労わりに感謝し、その気質を愛していた。

その日もヴァルターはフィーリアを庭園に連れ出していた。
朝から曇っていたが、昼過ぎになって晴れ間が見えてきたのだ。
パーティーの無い午後の城は静かで、どこか倦怠感が漂っていた。
温かい所為か、仕事を終えた園丁が転寝をしていたり、遊びに来る小鳥たちに餌をやっていたりする。
初夏独特の草いきれの匂い。自然と肩の力が抜け、政務で疲れた頭がほぐれる。

傍らの夫に視線を巡らせると、ごく自然にかち合う。
ヴァルターは少し驚いた風情で固まり、ついでぎこちない笑みを作った。
周囲の緑にヴァルターの紅はよく映える。それこそ新緑の大輪のように。
口にすれば戸惑うだろうから思うに留めておく。

「咲くのはまだ先のようですね」

とヴァルターが所在無げに呟く。
アーチの薔薇はまだ蕾が固い。まるではにかんでいるかのように身を縮めている。
緑の門を見上げると絡みついた蔦の隙間から光が視界を覆った。思わず手をかざす。
ヴァルターは時にフィーリアを眩しい、と評した。
この蔦の合間の光のように、気まぐれに苛んでいるつもりは無い、とフィーリアは思う。

でも、大人しい見た目に反して強かだと言われれば否定できない。
強くなり、狡猾にならなければ押し潰されてしまう時勢では、
箱入りの小娘ででさえも、庇護されるばかりのか弱い存在ではいられないのだ。
けれども、とフィーリアはアーチの下からヴァルターに向き直る。
青いドレスが翻ったのをヴァルターは目を細めて見守る。

そう、そんな風に――。

どこか泣き笑いにも似た表情でフィーリアを見つめる。
あらゆる障害を乗り越えて、晴れて夫婦となった――。
しかし、それは始まりにすぎず、夫婦となった後も、更なる試練が待っている。
ヴァルターはきっとそれを知っていたのだ、とフィーリアは思う。
私は知らない。エクレールも、ヴィンフリートも知らなかった。

「どうしました」

優しく問う。愛しさと何か別の感情が混ざっているかのように。
敬語は中々抜けない。ともすれば騎士と主君という関係に戻ってしまったような錯覚を受ける。
たぶん、それが一番楽なのだろう。ヴァルターにしてみても、フィーリアにしてみても。
提示された選択肢で、敢えて困難な道を選ぶのは愚かなことなのだろうか。
その先に喜びがあると信じられたからこそ、互いに選び取った。

私は強くなった、とフィーリアは思う。
父王の死に泣いてばかりだった娘から、騎士の主と認められるまでに。
その騎士たちを駒として扱い、妻子のいる兵たちを戦地に追いやることを、
感謝と名誉に覆い隠して冷徹に実行させることも覚えた。
表には決して表さないが、他者を陥れることも必要悪だと納得できるようにもなった。

それが善い事なのか悪い事なのかはわからない。
私は変わってしまったのだと、抑えようのない虚しさと悲しさを覚えることもある。
だが、悲しいのは自分が変わっていく事ではない。

ヴァルターはこんな私をどう思うのだろう?

眩しさの中に見るのは畏敬や羨望だけなのか。
かつて彼を襲った凶刃、女の狂気と欲望から生まれた毒。
か弱いみてくれに隠された女の野心と強かさを、私の中に見ているのではないか。
それは恐ろしい想像だった。

「貴方が付いて来てくれているか、気になって」

陛下、と怪訝な表情でヴァルターは語りかける。
フィーリアは静かに首を横に振るう。

「名前で呼んでくれないと嫌よ」

息を呑む気配がする。一瞬周囲を窺う素振りをすると、ヴァルターは意を決した風情で口を開いた。

「フィーリア」

戦場で下知を飛ばす声がこれほど優しく響くものなのね、とフィーリアは不思議な気分になる。
ヴァルターもアーチに足を踏み入れる。影がフィーリアに重なる。
目の前に逞しい胸があって、視界の隅に紅が揺れるのが見えた。

「やはり緊張するな。中々慣れなくて、すまない……」

ヴァルターは決まりが悪そうに苦笑する。つられてフィーリアも微笑む。
他愛の無い遣り取りにも救われた気分になる。
まだ私たちは大丈夫、と己に言い聞かせて、そろそろ戻ろうと口を開きかけたその時だった。
緩やかに抱きしめられ、言葉を封じられる。驚きと共に夫を見上げた。

「何か、思い悩むことがあるのだろう」

不安げな表情を隠そうともせずヴァルターは語りかける。
取り繕うことや作り笑いは上手くなったのに、と言葉を失うフィーリアに、
ヴァルターは慈しむように微笑みかける。

「どうして分かったんだという顔をしているな」

「……どうして?」

簡単だ、とヴァルター。

「俺は貴女の夫だ。妻の様子に誰よりも先に気づいて当然だ」

息を呑んだ。嬉しさと戸惑いで二の句が継げなくなる。

「こんな男だ。俺には悩みの中身まで察することはできない。
全て打ち明けろとは言わない。悩み多き立場である貴女に、そんなことは押し付けられん。
でも、心配なんだ。フィーリア、貴女は、その、一人で抱え込んでしまうから」

背中にまわされた手が言葉を奪っていく。
誰かを慮って気持ちを秘めているわけでは決してない。ただ臆病なだけだ。
包み隠さず伝えることはヴァルターの傷を抉るに等しい。
そしてほんの少しでも、夫から疑念と恐怖を感じ取ってしまえば、自分がどうなるかわからない。
恐らく、崩れ落ちてしまうだろう。

「ありがとう、ヴァルター。いつも私を支えてくれて」

「フィーリア」

「私は、貴方の支えになれているかしら?
私は自分が良き主君だなんて思えないし、至らない妻だわ。
霧の中を手探りで彷徨って、何と形にしているけれど、私は本当に正しい道を進んでいるのかしら」

本心と虚飾が交ざり合った言葉を吐く。
ああ、と心中で嘆息した。やはり、言えない。貴方の心に怯えているなど。
風が吹き、アーチが揺れる。薔薇の無い蔦は見るも寂しい。
私も同じだと内心で呟く。緑もあれ、小鳥もあれ、しかし大輪こそあらねば薔薇ではあるまい。

ヴァルターのいない玉座など――。

恐れ、去っていくことを何よりも恐怖する。
それは心変わりよりも恐ろしい。憎まれその手に掛かることの方が幸せに思えてくる。
狂おしいまでの慕情。
今の今まで、周りが気を揉むほど穏やかなそれと思っていた愛情の本質に辿り着き、
フィーリアは表情に出さぬまま驚愕していた。これほど激しい感情を秘めていたなど思いもよらなかった。
益々心に秘めておかなければならない、と強く決意する。

「フィーリア、貴女には言っていなかったが……。
ああ、隠していたわけではないが、その、情けないことだったから…。
フィーリア、俺は前の結婚以来、長いこと一人で、夜を迎えていた」

ふと、ヴァルターが語り出す。
云うにも辛そうで、内心の苦悩が見て取れた。

「知っての通り、恐ろしかった。
いつ刃が飛びだすんじゃないかと、差し出される杯に毒を盛られているのではないかと…。
褥を共にするなど考えられなかった。正直言って、フィーリア、貴方との夜も不安だったのだ」

その日が近づくにつれ、ヴァルターは夜も眠れなくなったと云う。

「愛し合うことが恐ろしいのではなく、眠りに付くことが怖かったのだろう」

己が無防備になる瞬間が。フィーリアは黙ってヴァルターの言葉を待つ。

「覚えているだろうか。貴女の部屋でうたた寝をしてしまった時のことを。
あまり夜に寝ていなかった所為で、貴女を待つ間、眠りに落ちてしまったのだ」

よく覚えている。
それはというのもヴァルターの寝顔を窺ったのはこれが初めてだったのだ。

「そんな事情があったのね」

「貴女は俺を起こさぬようそっとお召し物を掛けてくださった。
起きた時、傍に貴女が居て驚いた。傍に人が居れば必ず目が覚めていたというのに。
その時の貴女の笑顔もずっと目に焼き付いている。なあ、フィーリア」

打って変わって意志のこもった強い視線を送る。

「支えられているのはずっと俺の方だ。
変わらない優しさに救われてきたんだ。良いか悪いかなど、俺にとっては些末なことだ」

「今の私は、怖くない?」

顔を上げたフィーリアの瞳を見つめ返す。

「恐怖は常に自分の中にしかない。それを気付かせてくれたのも貴女だ」

背中の手に力が込められる。フィーリアはヴァルターの鼓動を聞いた。
恐怖は常に自分の中にしかない、と言葉を刻み付けて。
己の影を相手のそれだと見誤り、ありもしないものに不安を感じていたのかもしれない。

私にはこの人しかいない――。

先ほどよりもずっと温かな気持ちで向き合えた。
愛してるわ、と夫の腕の中で囁く。



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