其は美酒にも似たり



血とは何なのだろう。

最近のフィーリアはとみにそんなことを考える。
これがたくさん流れてしまえば人は死ぬ。命の象徴たるものだ。しかし、人は血を忌避する。
穢れとして遠ざけ、屠殺場や処刑場は街はずれに設けられる。
命の象徴は死の象徴でもあるからだ。流れ出る血は地獄の光景にもある。
人は勝手で臆病で自分を正当化するのが得意だ。本当はただ死を実感するものが怖いだけだというのに。

フィーリアは天蓋付きのベッドに腰掛ける。漆黒の騎士はその足元に恭しく膝をついた。
静かだった。人払いは済ませてあるとはいえ、普段王宮は賑やかな場所だ。
外に出れば騎士たちが鍛練に励み、宮中では侍女や官吏たちが小鼠のように駆けまわっている。
それがどうしてか、この城に立った二人きりになってしまったような錯覚を受ける。
耳を澄ませば、彼らの駆けまわっている気配が聞こえてくるというのに。

自分の手をガラス細工に触れるかのようにとり、恐る恐る唇を近づける彼を見て、
フィーリアはその思いを強くする。傷をつけた指に触れた瞬間、世界が切り取られてしまった。
何故だか目が離せなくなる。

人が吸血鬼を怖がるのはやはり血を糧にするからだろうか。
ディトリッシュはフィーリアの視線を避けるかのように目を伏せている。
血を糧にする生き物である彼は、どうしてか白磁のように肌が透き通っている。
襟から覗く首筋など薄らと血管すら見て取れる。指先から吸い取られる血はどこに行ってしまったのだろう。
こくりと彼の喉が動いた。ああやはり、飲んでいるのだ。だとしたら本当に何処へ行ってしまったのだ。
彼の腹に収められているのか。それとも己が血として身体中を巡っているのか。
それを確かめるとしたら、やはり彼の全身を暴かなければならないのか。
でも、きっとそんなことをしたらさしものエクレールも卒倒してしまうかもしれない――。

益体も無いことを考えていると、ふと指先にあった温もりが離れた。
寂しさを覚える間もなく、ディトリッシュは己の過ちを隠すかのように白いハンカチで傷口を覆ってしまった。
ああ、と残念な気分になる。もう終わってしまうのかと。

「もういいのかしら」

「はい。重ね重ね、感謝の念に堪えません」

逃げるように退出しようとするディトリッシュを引き止め、自分の隣を軽く叩く。
王女のベッドに座るなどと――。困惑した様子で立ち尽くす青年に軽く笑いかける。

「私たちを叱る執政官や侍女はここにはいないのよ。さあ」

愛らしい王女の笑顔の前にディトリッシュは白旗を揚げた。
彼は恐る恐る王女の隣に腰掛けた。ベッドに二人分の重みが加わる。
ディトリッシュはひどく緊張していた。毎夜フィーリアが身を横たえる寝所。
王城のどこよりもそこは彼女の香りが強かった。彼は気を紛らわすように口を開く。

「こうしてお話しするのは随分と久しぶりのような気がします」

フィーリアはディトリッシュの内心の葛藤を知る由もなく、悪戯っぽく微笑む。

「そうね。二十八日と二時間ぶりよ」

「…数えていらしたのですか?」

ディトリッシュの驚いた顔に満足し、フィーリアは早々に種明かしをしてしまう。

「カレンダーにはそう書いてあったわ。人と会う時は忘れないように時間も書き込んでおくの。
もしかして期待させてしまったかしら。ごめんなさいね、悪い王女様で」

フィーリアにつられてディトリッシュも苦笑する。
あら、とディトリッシュを伺いながらあることに気が付く。
フィーリアは今日初めて青年の偽りのない笑みを見たのだ。

「私、あなたがそうやって笑っているの好きよ」

ディトリッシュは目を細めた。
はにかんだように口元を抑えるとフィーリアから目を逸らして床に視線を移した。
白磁の肌に多少の血色が戻ってくる。照れているのだろうか、とフィーリアは観察する。

「ありがとうございます。それでは殿下の前では出来る限り笑っていることに致しましょう」

「無理して笑わなくていいわ。私、あなたの困った顔も好きだから」

そう言うと本当に困った顔をしてしまう。
何故だかフィーリアには自分よりも膂力もあり逞しくもある騎士たちが、途方もなく可愛らしく思える時がある。
もしかしたら私はとても無礼なことを考えているのではないかと心配したこともあった。
だがエクレールに言わせてみれば、女として当然のことであるらしい。
また騎士を束ねる騎士王の末裔として、配下の騎士を愛おしく大切なものであると感じるのは当然のことなのだと、
かの堅物の執政官は言っていた。そもそもこれは彼の父親の受け売りなのだそうだが。

「ごめんなさい。からかったりなんてして。でも本当に無理して笑わないで。
ディトリッシュはすぐに我慢して自分で背負いこんでしまうから心配なの。
本当に私は大丈夫だから、あなたが苦しいと私も苦しいわ。いつだってこうして――」

「いけません。殿下」

ディトリッシュは今までにない意志の強さではっきりと拒絶する。
フィーリアは少しばかり面を喰らう。こうして厳しい瞳を投げつけられたのは初対面のあの日、
剣の誓約で黒貴族の名代として謁見の間で顔を合わせて以来だったからだ。
しかし、もはやどれほど厳つい大男に凄まれようが、古の魔獣を目の前にしようが、
フィーリアの心にはそよ風が吹いたくらいの変化しか齎さない。
自分がいつからそうなってしまったのかフィーリアにはわからなかったが、
彼女自身はそれが良い変化であると受け止めていた。
何故なら目の前の青年を包む固い殻が嫌悪に由来していないことを理解できるからだ。

「騎士王の裔たる殿下が軽々しく吸血鬼に、ましてや宿敵の血族に血を分け与えるなどと、
本来ならあってはならぬことなのです。私のことはどうかお気になさらぬよう。
ご自愛ください殿下。御身は私などとは比べ物にもならぬ――」

ぽふ、とハンカチに包まれていた指先がディトリッシュの口を塞ぐ。
白いハンカチにはじわりと血がにじんでいる。
フィーリアは「ねえ」とディトリッシュに語りかけた。

「騎士王の末裔の血はどんな味がするのかしら」

ディトリッシュは思わず聞き返す。
可憐な王女の口から何かとんでもなく恐ろしいものが洩れたような気がして。

「私、ずっと気になっていたのよ。私はこの血と一緒に生きていたようなものだから。
実はね、あまり大きな声では言えないけれど他の人と何も変わらないと思うのよ。
そうでしょう? 皆と同じ赤い色で、光っているわけでも、砂金が混ざっているわけでもない」

「……滅多なことを」

やはりディトリッシュでも戸惑うものなのか。
すこし可笑しくなった。無意識に笑っていたようで、ディトリッシュは怪訝な顔をした。
今度は笑い返してくれなかったと残念な気分になる。

「本当よ。私、お父様が病に倒られた時、お兄様がいなくなってしまった時、
ずっとずうっと朝から晩までお祈りしていたの。
私たちに偉大なる騎士王の血が流れているのならばどうかお父様を助けて。
お兄様を見つけて。騎士王様ご加護をって。でも、何も起こらなかったわ。
せめて私の血に病を治すことができる効能があったらって思ったこともあったわ」

でもね、とフィーリアは曖昧に笑う。
騎士王という人は余程厳しい人であったのか、自らを助ける為の祈りは決して届かなかった。
かの日の祈りは喪失の恐怖心からでもあったが、庇護者を失う不安も大きかった。
フィーリアは幼き日の自身を省みてそう思った。

「今はあなた一人でも苦しみを和らげることができるから、嬉しいのよ。
ねえ、私の血はどんな味がするのかしら?」

するりとハンカチが床に落ちる。指先を走る一直線の傷が露わになる。
ディトリッシュは無言でそれを拾った。己の中の心臓の鼓動を聞きながら。
鼓動はまるで警鐘のように彼の耳朶を打った。

ディトリッシュは恐ろしかった。
フィーリアは容易に彼の砦に張り巡らされた濠を越えてくる。
これが騎士王の末裔の力だというのか。ごく自然に心に触れ、虜としてしまう。
本当は心の望むまま血を口にしたかった。だがそれが許されることが恐ろしい。
許されてしまえば何かが変わってしまう。春が終わり夏が来るように。
雪が解け雲が晴れ、青い空が広がっていくように。変化が訪れるのをディトリッシュはひどく恐れていた。
ディトリッシュは拾ったハンカチを軽く払い、もう一度王女の指に結ぶ。

「答えられません。ただ…温かいとしか」

「そう、なの。なら、もう一度味わってみる? 今度はちゃんとわかるかも」

フィーリアは折角結んだハンカチを解いてしまう。
宙を舞ったハンカチを寸での所でディトリッシュは受け止めた。

「何故、そんなにも――」

知りたいのですか、と繋げる前にディトリッシュは思わず口を噤んだ。
青い瞳が真っ直ぐにディトリッシュの瞳を見上げている。
フィーリアは俄かにベッドの上で膝立ちになった。視線が同じ位置に来る。
フィーリアは囁いた。ディトリッシュの耳には「あなたが」と言ったように聞こえた。

「…私が?」

フィーリアの唇がいつの間にか耳元にやって来る。人の子より長い闇の者のそれ。
息が触れた。全身に鳥肌が立つ。フィーリアは囁いた。

「あまりにも美味しそうに飲んでいるから」

愛おしく思えて。

聞かなければ良かった、と後になってディトリッシュは後悔した。
フィーリアはただ己の心が命ずるまま行動しただけで、次に起こったことをただ幸せに思った。
幸せに思うということが何を意味しているのか、フィーリアは薄々感付いていた。
ただフィーリアもまだ十五の少女。聡く、権謀に慣れ親しんだ王女だとしても、
目の前の青年の本心が何処にあるのか確かめるにはまだ経験が足りなかった。
そして確かめるには恐ろしくもあった。変化を忌避したのは騎士だけではなかった。

どんな味なの。

その問いの答えだと言わんばかりに唇が重なった。
味を確かめようとしていたのか、長い間そのままだった。





「恋人同士に見えるかしら?」

ディトリッシュの心中を読み取ったかのようにフィーリアは嘯く。
解いてしまったハンカチを再度結び直している最中のことだった。
案の定彼はハンカチを手にしたまま固まってしまう。

「ごめんなさい。でもやっぱりあなたの困った顔好きよ」

「…悪戯が過ぎますよ。王女殿下」

結局、ディトリッシュは無かったことのように振る舞うしかできなかった。
フィーリアはそれに傷ついた様子も無く、むしろ常よりはしゃいでいるように見えた。
それが余計に気恥ずかしく、自分一人だけが罰せられている心地がした。

「なら笑って。あなたの笑った顔の方が万倍も好きだから」

「…無理しては、笑えません。笑うなと仰ったのもあなたですから」

「どうしたら笑ってくれるの?」

「殿下が本心から笑って下されば。あなたが幸せであれば騎士は幸せなのですよ」

まあ、とフィーリアは傍らの青年に寄りかかる。

「なら笑って。私は今とても幸せよ」

ディトリッシュは苦笑する。フィーリアも笑った。
たとえあれが王女の気まぐれだとしても、一時の憐みだとしても、
フィーリアの笑顔が目の前にありディトリッシュは幸せだった。
ねえ、と不意にフィーリアが語りかける。

「お願いだから無理しないでね。約束」

「…はい。あなたの笑顔を曇らせることは決して」

直にエクレールが戻ってくる。それまで二人は語り合っていた。



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