鏡の中の人形は



「リュシアンは行方不明だとのことです」

背を向けて寝そべる王女にエヴァンジルは語りかける。
肩から腰に掛けての曲線を描きながら、視線はスケッチブックと被写体へ交互に注がれる。
フィーリアは肘をつき、半身を起こして寝そべっている。腰から下は天鵞絨の布で覆われている。
フィーリアは微かに顧みた。

「ああ、動かないで」

フィーリアは首を元に戻す。白い首が蛇のように艶めかしく動いた。
弾かれたように黒炭を走らせる。一瞬を切り抜いてしまいたいと思う。
その人をもっとも美しいと感じたその瞬間をだ。

「騎士ユークレースは主を逃す為、数多の剣を持ち替えて、命尽きるまで戦いました。
今頃吟遊詩人たちは悲劇の剣士に捧げる鎮魂歌を作っているところでしょうね」

そう、と王女は気の無い相槌を打つ。
男のつまらない武勇伝を聞かされる女のような調子だ。
一夜を共にした男であるのに何て情の無い、と茶化すように言ってみせる。

「彼の宿願が叶ったということですね」

「エヴァは嬉しいの?」

「そう見えます?」

質問で返さないで下さる、と口を尖らせる。
観念してエヴァンジルは語り始める。

「貴女は気が多すぎる」

「絵を描いている間は貴方だけのものよ」

ああ、だから他の男のことなど気にも止めない風を装っていたのか。
エヴァンジルは一人得心する。
貴方だけのものと囁かれ、満たされた気分になるものの、心は羽を広げて遠ざかってしまっている。
何も語ろうとしない王女に心情を吐露する。

「天賦の才を与えられた者として本懐を遂げることが幸福なのか。
才の無い者としては想像することしか許されないのが悲しいところです」

あの麗人は名誉欲という言葉だけでは計り知れない飢えがあった。
時代を動かす轟きにも似ている、と思ったことがある。今、玉座に座っている王に備わっていたものだ。
元をたどれば、自身の絵画への情熱と同じものなのかもしれない。

生きる道は無かったのか、と自問する。
しかし、そうなれば恐らくリュシアンは生きていなかっただろう。
かつての教え子が惨死する様を聞かされるのは忍び難かった。
今更何を、と自分でも可笑しくなる。彼の手を素気無く払いのけた癖に。
エヴァンジルはかつての教え子を思い浮かべる。ただ、聡明で、孤独な少年であった。

「彼は乱を起こしてまで貴女を手に入れたかったのだろうかね」

「乱はユークレースの願いよ」

傍らでリュシアンを唆したという意味ならば、ユークレースはとんだ奸臣だ。
が、リュシアンは大人の狡知など、容易く見抜く賢さを生来持っている少年だ。
たとえ、王であろうとも、リュシアンを心より心服させることは出来ないだろう。
恐らくフィーリアをおいて他にあるまい。

「では、リュシアンの願いは」

「心から安らぐことではないかしら」

「戦いが――」

安らぎなのか、対極に位置するものではないか。
エヴァンジルは騎士らしかぬことを考える。

「本当に、何故かしら。リュシアンはとても賢い子だったのに」

エヴァンジルにしてみれば明白なことが、フィーリアには不可解であるようだ。
何を望んでいるかは容易くわかる。が、その絡み合った所以は常人と同じく難しくあるらしい。

「もう一度貴女に抱かれたかったんだよ」

フィーリアは不思議そうに首を傾げた。
リュシアンはきっと大人になってしまったのだろう。
取り繕い、心偽ることを覚え、本心に耳を傾けることをしなくなってしまった。
だから、大義名分などと云うお為ごかしでフィーリアを得ようとした。
それが間違いだったのだ。

急ごしらえで備えた砦のような名分は、
フィーリアにしてみれば頑是ない子供が作った積み木の城だ。

「違うわ」

何が、とエヴァンジル。

「私の救い主になれば、私を思い通りにできると思ったのだわ」

容赦の無い、と思わず苦笑する。
もしここにリュシアンが居たのならばどうなっていただろう。
きっとリュシアンは生き延びたに違いない。ユークレースの命を賭した奮戦があったのだ。
今頃は僅かな家臣と共に他国へ落ち延びているはずだ。そこで穏やかな一生を過ごすに違いない。
数年もすれば、自身が幼い身でありながら政治を司っていたことなど、一睡の夢となるだろう。

息を吐く。人の営みは何と儚いものであるのだろうと。ふと己を省みる。
数多の絵描きが世に認められることを望み、権力者からの寵愛を夢見る。
だが、生み出された絵の幾枚が後世に残るのだろうか。

「どうかしたの。エヴァ」

「時間を切り取ることが出来るのならば、永遠に幸福でいられるのでしょうか」

わからないわ、とフィーリア。

「でも、永遠は牢獄だと思う人もいるのよ。私の愛する人たちは、移ろいを怖がったり、
愛おしんでいたりして、最後は穏やかな顔に落ち付いて行るわ」

「フィーリア、貴女はどう思っているのです?」

「私は同じ。永遠も刹那も、生も死も、同じよ。貴方は違うのよね。
オベルジーヌも、エクレールもディクトールも、ヴィンフリートも皆違うわ」

「彼らは?」

「ユークレースは永遠を、リュシアンは刹那を」

選んだのよ、と愛おしそうに囁く。
ユークレースは、永遠を得る為に誇りも道義も、命さえも犠牲にした。
私にそれが出来るだろうか――。内心の自問に応えたのはフィーリアだった。

「ユークレースは永遠以外の宝物が他に見つからなかったの。
けれども貴方は違うわ。きっと絵がなくなっても、
槍が持てなくなっても生きていけるのではないかしら」

「それは、どうかな」

口ではそう言いながら、フィーリアの言う通りであった。
出来るものならば、槍働き以外で以って騎士として身を立てる術はないものか、と、
聖騎士を祖に持つ家柄にあるまじきことを常々思っていた。
しかし一方では、騎士では無いただの男になることが酷く不安だった。
命じられれば甲冑を纏うことに抵抗はない。それが名誉であると魂に刻み付けられている。
それに、絵描きであることも。未練を絶ったつもりであり、痛みに苛まれながらも
結局捨てることは出来なかった。

「私はこの手を失いそうになった時、いっそ華々しく散ろうかと思ったよ」

あたかもかの天才剣士のように。止まったのは老母への申し訳なさからだった。
せめて母が生きているうちは、と考えている間に、
知人や縁者から自分の腕を惜しむ言葉を贈られ、心からの労わりや励ましを貰い、
そうこうしているうちに死に急ぐ気持ちは無くなっていた。

「愛が貴方を引き留めたの?」

「戯曲の主人公になったつもりはないさ。ただ皆に申し訳なくなってね。
病でも無く、曲がりなりにも家名を受け継ぎながら、
悲観していた自分が情けなくなったんですよ」

生きることを選んだ。が、時折狂いそうになることもあった。
芸術への慕情はしばしばエヴァンジルを狂わせたのだ。
まるでフィーリアのよう、と内心で裸のまま寝そべる王女に語りかける。

「私は強かで卑怯な男です」

「それは、貴方を生かす命綱だわ」

喋りすぎたと思った。己の恥部を肯定されてしまえば立つ瀬がない。

「でもね、私だって貴女がいなくなったら生きてはいけないよ」

本心と強がりが入り混じって出た言葉は存外に陳腐だった。
エヴァンジルは筆を置く。所詮永遠には程遠い才の無い男だ。
唯一の武器は先祖から受け継いだ偏執的なまでの没頭癖。
それさえもフィーリアは容易く奪ってしまう。酷い人だと思う。

「私は誰の命綱でもないわ」

「そういうことではないんだ。つまり、私が貴女を愛しているということさ」

言うが早いか、自身も褥に横たわった。目の前に微笑むフィーリアが居る。
瑞々しい肌が揺らめくたびに匂い立つ。花のよう、と呟くと唇が重ねられた。
舌を絡め取りながら裸身に手を滑らせる。

「エヴァ」

美しいだけでなく、男に邪心を抱かせ、堕落させる肉体である。
覆い隠すのは容易く未だ世間の評では彼女は慎み深いままであった。
狡猾だからと舌打ちする者も居る。
しかし、それは間違いだと思う。彼女は磨き上げられた鏡なのだ。
人が望んだ姿を映しだす。それは時に己が分身のように思えるほど精巧だ。
だから、海よりも深く愛されることもあれば、蛇蝎の如く憎まれることもある。
彼女は悪魔なのだろうか?

「―――っ……」

背中に爪を立てられる。意識を別にやっているのを叱られてしまった。
苦笑しつつも目を合わせて視線で詫びた。
よくできました、と言わんばかりに深く迎え入れられる。
喉の奥から発せられる声に火がつく。この人を知りたいと思ってどれくらい経っただろう。
それは抱いた数を数えるようなものだ。

ようやくそのベールの一端に触れながらも、全貌を露わにするには程遠い。
まるで底なし沼に囚われたかのように深みにはまっていたかと思えば、
今辿り着いた場所は清く澄んだ湖のようだった。
しかし、濁り一つ無い湖は確かに美しいかもしれないが、魚も澄めぬ静寂の世界だ。
冷たく音の無い世界に取り残されるよりかは、底なし沼の方がまだよい。

「……フィーリア」

きっと、彼女はもっと何もない世界に住んでいる。
透明な湖でも汚れた底なし沼でも無い、何もない場所に。
時折を顔を出して、こうして取るに足らない浮世の人間を喜ばせようとする。
それはきっと――。




「私の絵は完成しそう?」

微睡みを破る声。目を開ければフィーリアの顔。

「貴方は私をどのように描くのかしら」

フィーリア、と呼ぶ掠れた声。
少女のようにあどけなく首を傾げるフィーリアはやはり透明で、
微笑んでいるようにも悲嘆に暮れているようにも見えた。

「貴女の望むままに」

「エヴァの瞳が映したままに」

白い指がつつと瞼を撫で目元を滑る。逃げようとしたエヴァンジルを絡め取ろうとするかのように。
そうだね、と前置きし語り出す。

「難しいんだ。私が未熟だから」

「難しく生きているつもりは無いのだけれど」

フィーリアは不思議そうな顔をする。

「貴女はご自分のことをどう思っているのです?」

考えたことも無いわ、とフィーリア。

「オベルジーヌは可愛らしい人形と言っているけれど、どうだろう。
彼は貴女のことを女神か聖母のように慕っているみたいだから」

「人形は人形でも、きっと泥人形よ」

泥人形、と聞き返す。

「水と日さえあれば何にでもなれるわ。毒蛇にも悪魔にも、女神にさえも。
でも、すぐに土へ還ってしまうのよ。後には何も残らないわ。
不思議ね、どうしてこんな風に生まれてしまったのかしら」

それが不幸なことであると嘆いたことは無い。
幸せも、不幸も無かった。生まれた時からそうだった。
ただ人の望むように振る舞った。そうすると皆が喜んでくれた。
他に望むことも無く、名誉もしきたりも伝統も理解できたのは概念ばかりだった。

卑しい貧民の娘にお前の着ているドレスを寄こせと言われれば、その場で脱いで渡すのだと思う。
恥という言葉の意味は知っている。矜持という言葉も。が、身の内には存在しない。
存在しないものを如何に育てればよいのだろうか。
万事がそうであった。知っている。けれども身の内には存在しない。
どこを探しても無いのだ。

「本当に不思議。嬉しいとか悲しいとかはあるのに」

「そうだね。でも私は貴女を悪魔や化け物の類には思わないよ」

ましてや、毒婦などと。フィーリアを抱き寄せ囁く。

「貴女は人を愛している。今までもたくさんの人を愛してきたんじゃないか」

たとえ虚ろであろうとも、泥人形は生を得ている。
そして、人を愛して喜びを得ているのならば、それでいいのではないか。

「エヴァ」

絡み合う。昼は長いようで短い。夜になればこの地の主が戻ってくる。
許された時間は存外に少ない。絵を完成させるには時間が掛かるだろう。

「まるで空を飛んでいるような気分。こんな気持ちは初めてよ」

「私もさ。貴女のこんな顔が見れるなんて幸せだ」



ターブルロンドの長い歴史の中で、唯一騎士王の血を引かず下級貴族から王となったディクトールは、
五年の短い治世の中で、数多くの功績を残し、その後の変革期の礎を作った。
王の死後、城を追われていたフィーリアが帰還、騎士王の子孫の元に冠が戻った。
フィーリアもまた、決して長いとは言えぬ治世でこの世を去るが、その子供によって王国は保たれる。

この激動の時代は、数多くの画家によって題材とされたが、
当代きっての画家が描いたという波乱の人生を辿った王女の肖像画は、
その後の混乱によって多くが失われてしまった。
協会が保有しているとも、黒貴族が隠し持っているとも言われているが真偽は定かではない。




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