覚めた夢
乱が起こる、と聞かされた時、ついに来たかと胸がざわめいた。
しかし、乱の中心人物が自身とかかわりの深い王女ではなかったことに意外さを禁じ得なかった。
戸惑いを隠すのも忘れ、今の主を見る。王は不快さを滲ませていた。

「何の為に泳がせておいたかわからぬな」

初老の王は溜息を吐く。
つい先ごろ即位した成り上がりの王は、こうして見ると随分と長く玉座にいるように感じられる。
彼の即位とほぼ時を同じくして主を替えたヴィンフリートは、王の呟きを無感動に聞き流した自分に驚いた。
命よりも大事だった存在を、使い捨ての道具として扱う言葉に他ならないというのに。

自分はこれほど冷血であったか。
綺麗ごとでは済まない世界にいることは承知しているものの、血の通う存在であることを止めた覚えはない。
ヴィンフリートはどうにかして、王女に対する敬慕や親愛を思い出そうとした。

「そなたにしてみれば、朗報であったか」

「乱の報せが朗報であることなどありますまい」

「あれは何を考えているのだと思う?」

あれ、が何を指すのか、問うまでも無い。
ヴィンフリートのかつての主であった王女フィーリア。
同じ女を母と慕った。その縁から、幼い頃から姫に仕えよ、姫の為に生きよと命じられてきた。
決して強いられたわけではない。幼いヴィンフリートにとっても、それは誇りだったのだ。
花のように愛らしい王女を守ることは、騎士の国に生まれた男としても、喜ばしいことだった。

しかし、それも今となっては過去の話。
忠義に燃えていた自分が、まるでおとぎ話の中の人間のように思える。
ヴィンフリートは思考を振り払い、王の問いに答えた。

「あの方の考えは私のような者には検討も付きません」

フィーリアは才知を隠していた。
可憐さと笑顔の下に、この国の知者が束になっても叶わない鋭利な知性を潜ませていたのだ。
隠したまま、側仕えの者にすら悟らせず、王宮を追われた。

「そうだな。狂人の考えなど、常人には思いもつかぬ」

王はどこまでも憎々しげだった。
つい先頃まで、この初老の男と若き王女は玉座を争う間柄であった。
互いに煮え湯を飲ませあった。ヴィンフリートも先兵となって男の行く手を邪魔をした。
しかし、男が勝った今でも王宮の中で執政官の一人として政務に関わっている。
憎い政敵に仕えていた男を、王は自らの懐に迎え入れたのだ。

「関わっている可能性はあります」

「分かっておる。が、証拠がでてこぬ」

「あの方は栄華や権力に興味はございません。このまま―」

皆まで言わせず、王はヴィンフリートの言葉を遮った。
わかっておる、と不機嫌さを滲ませて。

「だが、あれは人では無い」

「陛下には、左様に映られますか」

「お前は如何様に見える?」

ヴィンフリートは言葉に詰まった。
時を長く過ごしただけで未だ情が勝ってはいるものの、王が抱く嫌悪が理解できてしまう。
あれは人では無い、と言った王は憎しみ以外の感情が胸の内を占めている。
王女への不安や恐怖、それを共有し合えるのは、目の前の王ただ一人だけだった。

血を分けた父親や弟は未だに自分のことを許していない。
仕えるべき王女を裏切り、保身故に政敵の元に走った卑劣漢だと憤り罵る。
汚名は甘んじて受ける。言い訳のしようも無い。結局、自分はフィーリアから逃げたのだ。

「…あの方は、心を持たないで生まれてきてしまったのです」

かろうじて答えた。が、答えにはなっていない。
冷ややかな王の視線が突き刺さる。

「まさか、赤子の頃からあのような様だったとは言うまい」

「既に私が物心つく頃には」

気づいた時にはそうだった。
乳母の前では無垢な童女、父の前では素直な娘、臣下の前では可憐な王女、
侍女の前では穏やかな姫。万華鏡のように姿を変えた。
稚い子供の処世術であったのならば、ヴィンフリートはこれほどまでに恐れなかった。

褒めて欲しい、構って欲しい、お菓子が欲しい。
子供ならば抱く当たり前の望みをフィーリアは抱かなかった。
フィーリアは、何も望まなかった。

貴賤や善悪に関わらず、この世に生まれ落ちたからには、何かを望み追い求めることが許される。
悪行の限りを尽くし、処刑を待つばかりの罪人でさえも、恩赦が下ることを望み、それが許される。
ただ飢えを満たし、子を成すことだけが人の生ではあるまい。
今日よりも良い明日を、安らぎを得ることを望み、それが生きる糧となる。
それが人と獣を分かつものだとヴィンフリートは思う。

「陛下は、若きみぎりは立身を望んでおりましたか?」

「貧しさと賤しさゆえに。あれは味わったものでなければわからぬ」

「あの方には、私や陛下には無くてはならないものを、必要とされない方だったのです。
それどころか、万人が望む糧すらも必要となさらなかった」

それが恐ろしい。
欲も希望も、誇りも、善悪も、彼女の中には存在しなかった。
何故それで生きていられる。可憐な笑顔の裏は果ての無い闇が広がっている。

「物は言い様だ。恵まれ過ぎた娘が道を踏み外したとでも思わなくはない。
現に、あれは恥も外聞も無くオベルジーヌと淫蕩に耽っている」

果たしてそうだろうか。
王女と云う身分に生まれ、何不自由なく愛されて生きていきた故に、心を失くしてしまったのだろうか。
そうだとしたら、何故フィーリアだけが。ヴィンフリートには皆目見当もつかなかった。

かつては誰よりも大切な少女だった。
実の所、内心では兄のような心持でフィーリアを見守っていた。
勉学を教えてとせがまれるのも喜びの一つだった。幼さの残る横顔は今でも鮮明に覚えている。
笑みを浮かべ、首を傾げる仕草には、年が離れているにもかかわらず胸が高鳴ったものだ。

しかしそれも偽りであった。
フィーリアは相手が望む姿をそのまま写し取っているだけに過ぎない。
親を亡くした少年には母のように、強い騎士に憧れる少年には庇護を掻き立て忠義立ての甲斐がある姫に、
知をぶつけ合うことを望む者には、政治家のように雄弁になり、余すところなく智恵を披露した。
ただ相手が望むから。フィーリアはそのように振る舞う。まるで鏡のように。

何故?

それはわからない。ヴィンフリートはフィーリアがわからなくなった。
微笑む少女に寒気を覚え、心を閉ざし臣下であることに徹した。
だがそれにも耐えきれなくなり逃げ出したのだ。
かの性愛と快楽を愛する領主の元に預けられたと聞いても、助け出そうとはしなかった。
情人と堕ちたフィーリアを王が嘲笑い、初めて取り返しのつかないことをしてしまったと思った。

誰にも話せなかった。
父の目には、フィーリアは変わらず愛らしく無力な庇護の対象として映っている。
側仕えの侍女もフィーリアを溺愛し、盲信していた。
騎士たちの誰も、彼女の本質には気付かなかった。

「オベルジーヌ殿は、あの方に執着していましたから」

「素直に体を差し出した、か。その気になれば誰にでも助けを求めることは出来ように。
あの娘の為に命を捨てる者など両手の指の数では足りぬだろうな」

オベルジーヌが望むから、淫蕩な情人として振る舞っているのだろう。
誇り高き王女ならば世を儚んでもおかしくは無い。
フィーリアを、芯の強い健気な王女と信じている者は、王家最後の王女として耐えていらっしゃるのだ、と、
自らの無力さを嘆いている。

ヴィンフリートにも例外ではなかったのだ。
ヴィンフリートにとっての王女は善き主だった。
よく進言を聞き入れ、公正で民を保護し、騎士の主として威厳を保っていた。
そして、適度に愚かなふりをしていた。それが何よりもヴィンフリートを打ちのめした。

「こうして取り立てて頂いたことには心より感謝しております。陛下」

ヴィンフリートはそう前置きする。

「しかし、もっと早くあの方の心に触れられていれば、とも後悔しております」

機会はあった。ヴィンフリートは思い出す。

ヴィンフリート――…。

名をを呼ぶ少女らしいとろけるような甘い声。
フィーリアが呼ぶだけで己の存在が強固なものになる。
フィーリアを見守り、慈しむ生が続くとこの先も信じて疑わなかった

思えば、何と純情な男であったか。
己も騎士の国で生まれ、建国の偉人を祖に持つ紛れもない騎士であったのだ。
可憐な姫を守る使命は美酒のようであった。

フィーリアは酒を途切れることなく注ぎ足しただけだ。
彼女を王のように毒婦、妖婦と断じてしまうことは出来ない。
ヴィンフリートはただひたすら酔っていた。
杯が自然に満たされていると思い込んでいた。

フィーリアはよく頼ってくれた。
よく話を聞き、博識だと褒め、聡明と無知の境目のところで教えを乞うてきた。
だから、フィーリアと話をするのは楽しかった。
近い将来、彼女は慎み深く聡明な奥方となり、夫をよく支えた賢夫人として名を残すかもしれない。
そんな期待を込めて彼女を見守っていた。

「あの時、気づいていれば、と何度後悔したことか……」

何度も夢に見る。
繰り返し訪れる悪夢は、フィーリアの本質に気が付いた時でも、
家族に不忠者と詰られた時のものでも無い。

あれは、ヴィンフリートが国許から立つ日のことだ。家族ではなくフィーリアが見送ってくれた。
父は里心がつくから、と見送りを拒み、弟も父に倣い、息災を願う手紙のみを従者に託した。
素直に心を露わにできるのは女子供の特権、フィーリアとその侍女は誰にはばかることなく、
ヴィンフリートの旅立ちを祝ってくれた。

(あ、私、パイを焼いたんでしたわ。少し待っててくださいまし)

(まったく、慌ただしいことだ)

(ふふ、エクレールのパイはとても美味しいのよ)

侍女を待つ間、他愛の無い会話を楽しんだ。
しばらく会うことも無い。柔らかな金色の髪も、澄んだ青い瞳も名残惜しく思えた。
フィーリアも同じように思っていてくれるのならば、孤独な旅も随分と慰められる。
最新の学問を修め、政治の世界で身を立てられるようになるまで帰って来ないつもりだった。

(しばらくヴィンフリートともお別れね。寂しいわ)

(……父も今まで以上にご機嫌を伺うと申しておりました)

(お父様のお見舞いのついでにでしょうけれどね。親子そろって薄情なんだから)

言葉に詰まった。弁舌に関しては、並の弁論家には負けない自信があるというのに、
少女のからかい一つ、器用にいなすことができない。これが侍女であればまだ口が動く。
しかし、フィーリアは時折、臈長けた美女のように相手を翻弄する言葉を放つ。
それも少女故の早熟さからだと思っていた。その認識にひびが入るのは間もなくだ。

(ヴィンフリート)

不意に手が伸ばされ、頬に少女の手が触れた。

(かがんでくれる?)

僅かに首を傾ぐ。ふわりと揺れた髪が白い子供の頬をくすぐった。
フィーリアは子供がお菓子をねだるような甘えた仕草。
潤んだ瞳にヴィンフリートを映して。

そして、微笑む。
ただ微笑んだだけだった。それだけで自分の全てを思いのままにした
子供のまま透明な笑顔、向こう側が透けて見えそうなほどの。
言われるまま膝を折る。そのまま唇が唇に触れた。まるで恋人との別離のように。

(殿下……!)

ごめんなさい、と悲しげに目を伏せる。反射的に何も言えなくなった。
次の瞬間には凛とした瞳を真っ直ぐに向けた。

(貴方が帰って来るのを待っています)

それからどうやって別れたのかよく覚えていない。
気づいたら馬車の中だった。城が遠ざかっていくのを呆けた顔で眺めていた。
頭の中から留学への期待や不安がすべて吹き飛び、太陽を直接目にしたような白光に包まれた。
あれがフィーリア? あれではまるで――。

フィーリアが待っていてくれるのは願っても無いことだ。
留学も、武ではなく知によって国を支えるという夢も、全てはフィーリアから生まれ出たものだ。
陰謀の渦巻く宮廷では、時に親子の情愛など一切顧みられることなく、政治の道具に堕とされてしまう。
無数に放たれる悪意の矢からフィーリアを守る為にも、己の地位を高め国力の発展に尽力しなければならない。
それこそが自分の使命だと思っている。

だからフィーリアその人からの感謝は、王のそれよりも格別な思いがする。
幼く、可憐で愛されてきた姫君。王家と云う庇護が無ければ吹き飛んでしまうほどのか弱い存在。
だからこそ、別れの挨拶は違和感しか湧かなかった。
あれでは、夫の出征を見送る妻のようではないか。
悲しみを抑え、不安に押し潰されそうになりながらも、夫の武運を祈る芯の強い女。

あれではまるで――。

私の母ではないか。

弟が生まれる前に見た、若き日の父を見送る母。
女と云うものは、あれほど幼き時分から男を鼓舞する術を身に付けているものなのか。
頭を悩ませながらも、馬車の旅は続いた。
時間は、ヴィンフリートに都合の良い答えを与えてくれた。

フィーリアも社交界に出入りする年齢、大人の真似事がしたくなる年頃なのだろう。

そうやって自分を納得させたのだ。
口付けをかわしたという事実も無かったことにした。
ただフィーリアが自分を待っていてくれるということだけを脳裏に刻み込んだ。

(本当は望んでいた――)

フィーリアへの想いと、かつて婚約者であったことが無関係であると言えるのか。
成長したフィーリアに心を動かされなかったか。
ただ見守るだけの存在で、臣下として仕えるだけの存在で本当に満足だったのか。

そうではないと知っていたから、フィーリアは婚約者として見送った。

それに気が付いた時、愕然とした。

「何を呆けておる」

王の声で現実に引き戻される。主を目の前にして、内に籠ったことに恥じ入る。
意外にも王はヴィンフリートを哀れみの目で見つめていた。

「誰しも過去には戻れぬ」

わかっております、と絞り出すように声を出す。

「せめて、陛下の御許で庇護して頂くことはなりませんか」

「あの毒に曝されるのは御免だ。あの娘とは二度と顔を合わせたくない」

王は語る。

王妃にも王にも複雑な感情を抱いていたディクトールに、端からその娘はよく映らなかった。
最初は控えめで聞き分けの良い娘、次は屈託の無い心優しい王女。
王女は次々とディクトールの前で装いを変えた。
如何様な娘であれ、ディクトールにとって、全てを約束された王女など忌々しい存在でしかなかった。

何をしてもむつかしい顔をしたディクトールに、フィーリアは戸惑った表情をした。
しかし、戸惑いは一瞬だった。ある時から熱を帯びた視線を向けるようになった。

「興味だ。己の意のままにならぬ男に初めて出会ったのだからな。
珍獣を見るのと同じなのだよ。王冠を争うようになってからもそれは変わらぬ。
憎悪を抱くどころか、うすら寒い好意まで向けてきおって……! 心底忌々しい女だ」

王は吐き捨てる。
そうではないのでは、と言い掛けてヴィンフリートは口を噤んだ。
即位してから今まで見たことの無い剥き出しの怒りが男を包んでいた。

(恐らく違う)

空虚で、ただ他者の望む者の姿を演じることしか無いフィーリアにとって、
何者にも左右されない強い意志を持った王は眩い存在だったのだろう。

(ディクトールが望んでいるのならば。
皆が認めるのならば、それでいいんじゃないかしら)

(私のこと? ディクトールの好きにしても構わないけど)

(怒らないで。私にとっては生きるも死ぬも同じことなのよ)

(ディクトールは違うわ。だから彼が王になるの)

フィーリアを思うとただただ悲しくなる。
果たして、空虚なまま生まれてきてしまった人形に生きている意味はあるのだろうか。
答えられる者は誰もいない。




戻る


inserted by FC2 system