鏡よ、鏡

もう何日が経つのだろう。
領主が自室に退きこもり、他者を寄せ付けなくなってから。
ああ、私の所為だ。私があの方のお側に居ながら――。
一人の遍歴騎士が侍従の嘆きを黙って聞いていた。



かの地の領主は稚い子供。
しかし、領主たる責務は成人した者たちと平等に振りかかってくる。
孤独に苛まれて、悪意に曝されながらも、彼はよく務めを果たしていた。
両親が健在であれば、将来が楽しみだと頭を撫でられて聡明さを褒め称えられていただろう。

が、いかに賢明といえども子供は子供。
周囲には舌なめずりをする飢えた狼が、群れを成して領地を狙う。
領主を取り囲むのは猜疑、心を許す者は全て天の国に召されてしまった。
まだ親の愛を必要とする子供が、どうして耐えられよう。

ついに病んでしまわれたのだ。

領主が隠れてしまったのを聞き、下々の者は噂し合った。

噂は間違っていないとユークレースは思う。
しかし、昨日今日で心を病んだわけではないだろうとも思う。
領主は、リュシアンは、もうずっと前から心が壊れていたように見えた。

ユークレースがリュシアンに出会ったのは、
あの馬鹿馬鹿しい王の試練の最中のことだっだ。

あの時は国中の遍歴騎士が湧きたった。
王家と宰相の対立、戦が起こるかもしれない、仕事にありつけるかもしれない、と。
ユークレースもその口であった。余命幾ばくもなく、死に場所を探すが如く遍歴を続けた。
その中でリュシアンと出会った。最初は刺客の刃から身を守る盾として、ユークレースを欲したが、
彼の風流人としての物腰や態度、騎士にしては線の細い繊細な容貌が、幼子の心を僅かに開かせた。

リュシアンは合間によく武勇伝や冒険譚をせがんだ。
小さな領主の身の上を哀れみ、ユークレースも出来る範囲でそれに答えた。
まだユークレースが人の心を持っていた頃の話である。

結局、玉座を巡って行われた静かな戦いは宰相の勝利で終わった。
国は安定し、政治手腕が巧みな宰相の即位で、領主たちもようやく安心して眠るようになった。
しかし一方で、騎士たちは燻り続けている。
立身が叶わず、ましてや騎士として召し抱えられることもなく、
そのほとんどが野盗に身をやつすか、国を出奔して他国で傭兵となる道を選んだ。

試練の後から一度もリュシアンとは会っていない。
ユークレースは国に留まり、野盗となった騎士たちを狩ることで日々の糧を得ていた。
下種な仕事ばかりをこなし、日に日に心が摩耗していく中で、幼い領主との思い出は遠くなっていった。
リュシアンの名前を再び思い出したのは、王女より手紙を受け取ってからだった。

手紙の内容に、ユークレースは身震いした。

『簒奪者から冠を取り返し、幽閉されし王女の身に戻すべし。
諸侯よ、騎士たちよ、今こそ栄えある騎士の国を再興せん。
騎士王は我らを嘉みたもう――』

こうなることは目に見えていた。
貴族の支持は得られど、決して騎士の支持は得られない男だ。
彼と対立していた者は両手の数を優に越える。再び王女を担ぎ上げぬとどうして言い切れる。
王女をさらえとユークレースに命じた貴族もその類だった。

まさか乱の中心にリュシアンがいるとは――。

次の日にはエプヴァンシュタインに馬を走らせていた。
戦を、輝かしい死地をくれるならば誰に忠誠を誓っても良い。
それがたとえ黒貴族であろうとも。

ユークレースはリュシアンに偽りの忠誠を誓った。
しかし、最初に与えられた任務は領主のお心をお慰めしろと云う子守りまがいの命であった。
婆やや侍従らに頭を下げられ、ユークレースはリュシアンの籠る部屋に送り込まれた。

部屋の前で扉を凝視する。
確かに気配はある。しかし物音一つ、泣き声一つしない。
どうしたものかと、冷めた気持ちで髪を掻き上げる。

侍従らには、貴方にも責任があると遠まわしに責められた。
リュシアンが部屋に籠ったのは、ユークレースから王女の言葉を聞いてすぐだったからだ。
幼い子供には毒の塊のような女の言葉を聞くのはさぞ辛かっただろうが、
ユークレースに強く食い下がり尋ねてきたのはリュシアンの方だった。
それだのに、自分の所為にされるのはユークレースにしてみれば心外な話だった。

「領主閣下、いらっしゃいますか」

戸を叩いてみるも返事は無い。
引きずり出してやりたくなるが、仮にも主と仰いだ相手に無作法は躊躇われた。

(貴方は騎士でありすぎるわ)

王女の言葉が蘇り、苛立ちに襲われる。
あの後、誘われるまま王女を抱いた。詫びのつもりか、感謝のつもりか、自分でもわからない。
この女だけには借りを作りたくない。
そんな思いからか、貴族の娘や淑女にそうするよりも荒々しい抱き方をした気がする。

高貴な女を好きにできるという歪んだ悦びは、ユークレースと言えども無縁ではいられなかった。
ユークレースは久方ぶりということもあり、いつしか夢中になってしまっていた。
終わった後はただただ腹立たしく、病に侵されながらも衰えない男の業が滑稽で仕方なかった。
さらに腹の立つことに、王女はそんな粗雑な扱いでさえも、欲を灯らせ大いに楽しんでいたのだ。

王女はただ可憐なだけのか弱い女ではない。
ぞっとするような観察眼、最小の労力で人を動かすことのできる知性、
そしてそれらを覆すが如く刹那的な思考と、快楽を是とする振る舞い。
ユークレースの語彙では狂人と呼ぶ。

しかし、リュシアンは王女を慕っていた。
あの女がどのように年端もいかぬ孤独な少年に接したのか、想像だにできない。
リュシアンは王の試練の最中も、王女と親しげに手紙の遣り取りをしていたと云う。
そして剣の誓約の際も、宰相ではなく彼女を支持した。
王女の蟄居が決まった後も、リュシアンは泣きながら彼女に詫びたというのだ。

まるで崇拝のようだとユークレースは思った。
ともかくもリュシアンは何を惜しんでも王女の身を守ろうと決意した。
それからあれよと云う間に、周囲の国王憎しな貴族どもが群がり、蹶起の準備が整えられていった。
けれども計画は頓挫した。後は王女を連れ出すだけ、という段階で躓いたのだ。
肝心の王女が拒否したのだ。

それからリュシアンは部屋に籠った。崇拝する女神から見放されたのだ。
さすがのユークレースも哀れな子羊に思う所はあった。
だからこうして扉の前で呼びかけている。

(もっとも、貴女には痛くも痒くも無いのでしょうが)

「領主閣下、せめてお食事だけでも召し上がってください。聞こえていますか、リュシアン卿」

ユークレースは時間が惜しいと言わんばかりノブに手をかける。
予想に反して鍵はかかっていなかった。僅かに開いた部屋の先から湿った空気が流れてくる。
まさかもう――、嫌な予感が頭をよぎる。部屋に足を踏み入れる。
部屋の主は寝間着姿のまま寝台に腰掛けていた。

「…リュシアン卿、お加減はいかがですか?」

やつれてはいたものの、存外眼の力はしっかりしている。
水を、という掠れた声が洩れる。
水差しから水をくみいれ杯を渡してやると、リュシアンは一息にそれを飲み干した。

「夢を見ていました。ユークレース」

リュシアンは静かな声で語った。
病んでいるわけでも、気が触れているわけでも無い。年の割に抑揚の少ない理性的な声だ。

「あの方の、フィーリア殿下の夢です」

穏やかな表情は一見すると良い夢を見たとも取れる。
だが、ユークレースにはまだ囚われていると感じられた。

「試練の最中、僕はフィーリア殿下と親しくさせて頂きました。
あの方はとても優しかった。僕の気持ちをわかってくれた。
政治的な要求なんて一切しないで、ただ傍にいてくれたんです。
だから僕はあの方の為ならば死んでもいいとさえ思っていました」

恋情、というにはいささか重すぎる。
母を追い求める子供の如き、崇拝が混じった慕情である。ユークレースは寒気を覚えた。
彼女は、リュシアンの心が何を求めていたのか、寸分たがわず理解して、そのように振る舞ったのだ。

「ユークレース。貴方の目にはどのように映りましたか?」

「……底知れぬ方です。その気になればいつでもこの国を掌握できるのではないかと思わせるほどに。
失礼ですが、私にはあの方を言い表す言葉は一つしか持っていません」

魔女、と。ユークレースは言い切った。
リュシアンは否定もせず肯定もせず、そうかもしれないねと呟く。

「本当に優しかったんだ。一緒に御本を読んだり、手作りのお菓子を下さったりね。
望めば手を繋いでくれた。抱きしめて一緒に眠ってくれたこともあった。
フィーリアと呼ぶことも、お母様って呼ぶのも許して下さった。
でも、気づいてしまったよ。殿下は一度だって僕に何かを望んだことは無かったって。
それどころか殿下は、誰かに何かを望んだことは一度も無かったんだと思う」

「それは、そのような人間が本当に居るのでしょうか……」

子は親を求める。持たざる者は持つ者を嫉む。
死に瀕した者は恥や外聞をかなぐり捨てて生を掴もうとすれば、栄華を極めた者さえも更なる富を求めようとする。
人の欲望には際限が無い。余命いくばくもない己でさえも、戦の中の死を渇望している。
人は命を失くす直前まで何かを求め続けるのだと思っていた。

「木や風や花は己の存在に疑問を持たない。ならばきっと錆びた剣や腐った果実も同じ。
穴の開いたチーズは穴が開いていることを嘆きはしない――かつて殿下が仰っていたことさ」

突然リュシアンは頭を抱えた。
程なくして、すすり泣きが聞こえてくる。

「僕は……僕は、間違えてしまったよ…っ」

ユークレース、と衣服にしがみつく。

「何も望まない殿下が、ただ一つだけ許せないと思っていることがあるんだ…。
それはね…貴女の為だと嘘を吐くこと…」

寂しくて仕方が無かったから傍にいて欲しかった。
あの男が触れているのを許せなくて、また抱きしめて欲しくて、王に反旗を翻そうとした。
正しき王家の方に剣を捧げようなど、口では騎士のようなことを言っていたが考えたことも無い。
全て詭弁だった。

虜囚の身である貴女を解放してあげる為に戦うんだよ。そうやって体裁を整えた。
何故なら王女の関心は玉座に無い。生まれ育った城にも愛着は無かった。
今も昔も王女は変わらずに穏やかな笑みを浮かべていたのだ。
悔しくて悲しくて仕方が無かった。寂しいのは自分だけだったのだ。

「ただ一言、寂しいから一緒にいて欲しいって言えてれば……違っていたのかな…?」

「諦めてはなりませんよ。リュシアン卿」

ユークレースは強い口調で言った。

「あの方は己が身の損なわれることにさえ興味がありません。
恐らく、力ずくで略奪されようとも、今と同様に笑っていられる方なのでしょう。
後でも先でも、奪ってしまえば順序など関係ありませんよ」

ユークレースの表情はどこまでも冷たかった。
リュシアンは愕然とした表情で首を振る。

「そんな……そんなこと、僕には力ずくなんて…」

「愛しているから奪った。真心や忠誠心などよりも、あの方には響くでしょう。
リュシアン卿。余命幾ばくもない死にぞこないだからこそわかることがあるのです。
人は決して欲望からは逃れられない。どれほど他人を損なおうとも、卑怯者に成り果てようとも――」

それが人の業であるとユークレースは語る。

「殿下は業から逃れ、人であることを止めた方です。あれは、欲望を映す鏡だと思います。
己の姿を見せつけられれば、憎むか愛するしかないのです。
殿下を前にした貴方は何者として映っていましたか」

既に答えは出ている。
ほんの少し前に、リュシアンは王女との幸せな日々を滔々と語ったではないか。

「諦められるのですか? また逃げて、孤独の日々に安住しますか?」

不安を振り払うかのようにリュシアンは反論する。
不安の源は孤独か、それとも欲望か。

「あ、貴方は…戦争を起こしたいだけじゃないか…。
自分が戦いたくて…武名が欲しくて、僕をそそのかしているんだ…!」

「ええ、そうです。私は奸臣と呼ばれる類の輩です。
私の望みは戦いの充実感の中で果てること。それに、王に反旗を翻すならば史書に名が刻まれる。
ここで、貴方に逃げられてしまえば私が困るのですよ。
明日死ぬとわかっている人間が悠長に夜明けを待っていられるとお思いですか?」

淀みなく告げるユークレースを、哀れみと驚愕が入り混じった瞳が映す。
よくお考えください、とユークレースは踵を返した。
その背中にリュシアンが語りかけた。

「僕はただ、殿下の腕に甘えていたかっただけなんだ」

ユークレースは何も答えぬまま立ち去った。



その夜、リュシアンは再び夢を見た。
王女と同じ褥で夜を過ごした日のことを。

甘い香りが無機質なシーツに広がっていく。
ぴったりとくっつくと布越しに暖かさが伝わってきた。
柔らかい。まるで仔猫に触れているかのよう。
背中を撫でてくれた手は泣きたくなるほど優しかった。

甘くて残酷な夢だった。




戻る


inserted by FC2 system