三匹の獣
命数が尽きかけている。

ユークレースに死への恐怖は無い。ユークレースにとって死とはなだらかな階段を降りていくことに過ぎない。
発作の頻度が増えてきたことも、咳きに血が混じり始めたことも、彼の心を揺さぶることは無かった。
病を得たばかりの頃は病を自覚するたびに目の前が暗くなる心地がした。
ここに至ってはもう絶望するものも無い。代わりに焦りがユークレースを突き動かしていた。

久方ぶりに訪れたベルジュロネットで二回目の朝を迎える。
案の定、彼が滞在していることを聞きつけた領主が迎えを寄こして来た。
領主の客人として何度か館を訪れたこともある。若い領主は美を最大の価値と置く相当な変わり者だ。
ユークレースには自分の何が彼の琴線に触れたかはわからなかったが、妙に気にいられてしまった。

「わかった。午後に向かわせて貰おう。そう伝えておいてくれ」

さしたる時間を掛けず決断をする。
遍歴の騎士が領主と面会する目的と言えば、自らを売り込むか情報を売り込むかのどちらかだ。
ユークレースの目的はそのどちらでもない。
新たな王が立った後も遍歴の騎士を続け、命を削りながらも剣を捨てないでいるのは地方領主に仕える為ではない。
領主にしてみても、風前の灯火の男を召し抱えるなど、酔狂か道楽のどちらかでしかない。
戯れに時間を無駄にするつもりは、ユークレースには無かった。

病を得てからユークレースの願いは一つしかない。
それが叶えられるのならば、悪魔に魂を売り払っても構わないと思っていた。
狂人と謗られようとも、生き方を変えるつもりは欠片も存在しない。
親兄弟の縁も彼を縛る鎖にはなり得ず、彼は孤独の中で妄執に囚われ続けていた。

良く走る馬が走れなくなったら殺してやるしかない。
妄念に取りつかれた青年は、自らのとどめを自身の手でさそうとしていた。




領主の館は古い名門らしく古風なたたずまいだった。
さすがの領主も先祖が建てた館に手を加えることはしなかったようだ。
ユークレースは奇矯な領主の顔を思い浮かべる。かの男と再会するのにさしたる感動は無い。
昨夜念入りに手入れをした剣の重みを確かめる。
武勇の誉れ高いベルジュロネット公と剣を交えようとも凌駕すると自負している。
だが今はあの男をどうにかするつもりはない。

ユークレースは、一騎士としてでなく、領主の賓客として迎えられた。
応接の間に通され、歴代のベルジュロネット公の肖像画に囲まれながら時を過ごした。
程なくして領主のオベルジーヌが現れる。相も変わらずいかにも貴族然とした派手な男だった。

「よく来てくれた。君の評判は聞いているよ。随分と華々しい活躍をしているようだね」

「早々に恐縮ですが、ご用件の方をお話し願えますか。私には時間が無いのです」

「なるほど、散る宿命にある花は美しいが、足掻く才人もまた私の心をくすぐるね。
では君の望み通り用件を話そう」

無粋な物言いにも機嫌を損なわず、オベルジーヌは愉快気に話しを切り出した。
召し抱えの話を尽く拒絶しているユークレースを、今さら雇い入れようとする領主はターブルロンドにはいない。
しかし皆彼を求める。その類稀なき剣技の才覚を欲して。オベルジーヌも同様だった。

「近頃、私のフィーリアの周りを飛び回る蠅が多いのだ」

フィーリア。当時宰相であった王に敗北を喫した直系の王女の名前。
その王女が、この地に身柄を預けられていることを知らぬ者はいない。
政治的な実権の全てを奪われたといえども、騎士王の裔である彼女を利用しようとする者は必ず現れる。
天涯孤独の若い娘には酷だが、王の選択は間違ってはいないとユークレースは思う。
しかし身柄を預けられているとはよく言ったもので、実際には若い領主に囲われているに過ぎない。

この男の性癖や奇行もよく取り沙汰されている。
既に王女はこの世の人ではないとの噂もまことしやかに囁かれていた。
貴族も騎士も誰もが見て見ぬふりをして、零落した王女を哀れんでいた。

「暗殺者、ですか?」

「始末してくれないか?
出来れば首謀者を吐かせてくれたらいいのだが、まあ好きに戦ってくれて構わないよ」

薔薇の根を食い荒らすモグラを退治してくれ。そんなのどかな依頼を受けたような錯覚に陥る。
美を至上の価値と断ずる男は、敵に対して一切の容赦をしない騎士の顔を持ち合わせていた。
ユークレースに否やは無かった。戦いこそが不毛な荒野と化した心を潤す唯一の術だった。
ユークレースは依頼を了承する。その日は与えられた室で体を休めた。

軽く食事を済ませ、陽が落ちるのをじっと待つ。
静かだった。部屋の窓から王女のいるだろう棟を眺める。
木に覆い隠されたバルコニーが設けられているのが見えた。あれならば侵入するのも容易かろう。
あそこにこの国で最も尊かった血筋の者がいる。それだけで血が滾った。
美麗な容貌に獣のような酷薄さが浮かぶ。

「――っ……!」

刹那、ユークレースの胸に馴染んだ息苦しさが広がる。
激しい咳き込みと共に、ユークレースは膝から崩れ落ちた。
床に爪を立てる。息苦しさは止まらない。
助けを求める無意味さは当の昔に味わった。発作に襲われればただ耐えるしかない。
さながら嵐に翻弄される船のように。

時間が流れた。
嵐は過ぎ去る。最後に大きく息を吐き、ユークレースは立ち上がる。
少し前までは発作に襲われるたびに、絶望に染まった。
今は、苦しさこそ変わらないものの発作に苛まれる自身を冷静に見つめる己がいる。
心を決めた者故の泰然さを持ち得たのだと思った。

「時間が無い――」

ユークレースは呟いた。
命数が尽きかけている。





一人、二人、三人――。意外なほど多く蠅は潜んでいた。
五人目を斬り捨てたところで、首謀者を暴く術が失われたことに気が付いた。
まあいい、と事切れた死体を睥睨する。中々の手練れであったがどれほど斬り捨てた所で焦燥感は消えない。
剣に付いた血糊を死体の衣服で拭い取る。銀色の刃がぎらついた双眸の己を映し出した。
醜い顔だと内心で呟く。血に飢えた獣そのものだと思った。

バルコニーの下から王女の部屋を仰ぐ。
侍女の進言を聞かず、王女は変わらずそこで夜を過ごしているらしい。
豪胆だと言うべきなのか。仕えるどころか、顔を合わせたことすらない王女の為人など知る由もない。
王家の肖像画を掲げる者は、この国では珍しくなってしまった。失墜した王家はただ惨めだ。
ユークレースは断片的に得られた王女の評を繋ぎ合わせる。

美しく愛らしい慈悲深い王女。

ただ見映えがするだけの世知に疎い王女。

王女の評価は始めから終わりまで変わらなかった。
変わらないまま、宰相に取って代わられた。
その評価が正しければ、王女は今も侍女に抱かれながら震えて過ごしているだろう。
刃と殺意を目の前にすれば、哀れみを請い、助けを求めるか弱き女でしかないはずだ。

バルコニーに背を向け、ユークレースは寝静まった館に足を踏み入れる。
警護の兵たちは襲撃者の存在に気づいていない。
音も無くユークレースが始末したお蔭で、館は平穏そのものだった。
しかし全くの無警戒と言うわけではない。廊下で見回りや遅くまで仕事をしていた家人と何度かすれ違った。
ユークレースは当たり障りなく彼らの労を労った。
家人らも用心棒として雇われた客人の存在は知っており、不審に思うことなく頭を下げた。

そして、ユークレースが肩透かしするほど容易く、王女の部屋の前まで辿り着く。
一人だろうか。誰かが他にいるとしても、侍女ならば差し支えない。
だがオベルジーヌならばしくじるかもしれない。しかし――とユークレースは考え直す。
こんな夜更けに女の部屋にいる男のすることは一つしかない。
そして、どれほど屈強な使い手であろうとも、寝込みを襲われれば一溜りも無い。

音を立てぬようドアノブに手を掛ける。
微かに開けた扉の向こう側は静寂と闇だった。
ユークレースは瞳を閉じる。発作の予兆は無い。彼を阻む物は無かった。

「どうしたの? 中にいらして」

幾度も戦いを潜り抜けてきた心臓が大きく脈打つ。
場違いの女の声が扉の向こう側から響いた。
ユークレースの思考は白く染まる。すぐさま戻ったが、彼は逡巡してしまった。
女の声があまりにも楽しげだったのだ。

「来てくださらないの?」

このまま立ち去ることも出来る。むしろこれは騎士王の思し召しなのではないか。
苟も聖騎士の流れを汲む家系に生まれながら、愚行を重ねようとする男への最後の慈悲なのではないか。
既に祈ることを止めて久しい。幸いなのは呪う前には命が尽きることだ。

「…っ」

扉の向こうから伸びた手がユークレースの腕を掴む。
隙間から女の白い顔が現れる。暗闇に浮かぶ髪は金色のそれ、疑問符を浮かべた目をしきりに瞬きさせる。

「貴方は、誰?」

「私は―」

答える前に腕を引かれる。中に入れと言っているかのようだ。
ユークレースは誘われるまま部屋に入った。連れ込まれたと云った方が正しいのかもしれない。
部屋の中は暗かった。白の寝間着にショールを羽織り、女はユークレースに背を向けた。
テーブルの上の燭台に火を灯し、互いの顔が判別できる程度に明るくする。
女はもう一度ユークレースに向き直った。

「貴方は誰?」

「ユークレースと申します。しがない遍歴騎士です。貴女様は王女殿下であられますか?」

「ええそう。こんな夜更けに何か御用?」

面識の無い男を夜更けに部屋に入れるなど正気の沙汰ではない。
主人に見つかれば、その場で斬り捨てられてもおかしくない。何のつもりか。
女の声は驚くべきことに弾んでいる。まるで遠方の知己と再会でもしたかのように。

「真にフィーリア様であらせられますか?」

「そうよ。肖像画をご覧になったことは? 」

「何度か。公式の行事の際に遠目から拝見したこともございます」

確かに目の前の女は王女フィーリアだった。姿形だけならば。
しかし世評には違和感を覚える。
容貌の美しさは真であったが、世間知らずの小娘がこれほど嫣然と不敵に微笑むだろうか。
彼女の表情からは微塵も恐怖が感じられなかった。

「私に、何か御用? それともオベルジーヌの方?」

「いいえ、貴女に」

それは何?とベッドに腰掛ける。王女はレースの帳を弄びながら首を傾げた。
少女のような仕草と、それに相反する体の曲線。
健康な男であればそのままベッドに押し倒していただろう。ユークレースは冷静に観察する。

「私と来て頂けませんか?」

「どちらへ?」

ユークレースはとある貴族が治める土地の名前を口にする。
聖騎士の流れを汲むと自称する名門だが、往年の勢いが失われて久しい。

「何故?」

「正統な王家の血筋の方に忠誠を誓う、と」

そう、と王女は気の無い返事をする。
ユークレースですらそのようなお題目を信じていない。
かの家の凋落と宰相だった男の隆盛は一致している。つまりはそう言うことだ。
王女の敗北は騎士王と聖騎士が築き上げた時代の終焉だった。
この先も策謀を巡らせる貴族は出てくる。皆、美しく散ることはできない。

「止めておくわ。私はここが気に入っているの」

「そうですか。では――」

ユークレースは躊躇い無く剣を抜いた。白刃が蝋燭の灯りに照らされる。
静かに殺気を放ち王女の気配を捉えた。

「さあ悲鳴を上げてください。死に物狂いで抵抗なさってください。私は貴女を斬ります」

王女は身じろぎ一つすることなく尋ねた。

「それは貴方の本当の雇い主の意向?」

「いいえ、私自身の意思です。
私は運が良かった。ベルジュロネットに来て早々領主に招かれるとは」

「私は貴方に何かしてしまったかしら?」

「ご安心を、恨みはございません。
ただターブルロンド王家最後の王女が悲鳴を上げて斬り殺されるのが重要なのです」

ぞっとすることを告げられながらも王女は平然としている。

「私を殺すのは簡単だけれど、たぶん貴方は大勢の兵に囲まれてしまうわ。
生きてベルジュロネットを出ることが出来なくなるのよ」

館に響く悲鳴。血塗られたベッド。集まってくる人の群れ。
飛び交う矢、殺気に溢れた兵士たち。剣閃、火花、血臭、怒号、馬蹄――。
ユークレースは歓喜で身震いする。

「そうです。それこそが我が望み」

「貴方のことは知っているわユークレース。病に蝕まれた天才。
人間が華々しく散る必要は無いわ。歴史に名を刻むことも、悠久の時の流れの中では無意味なことなの」

「ならば大人しく来て頂けますか。どちらにしろ私の望みはかなう。
彼らは貴女を旗頭に決起する。王は恐らく貴女ごと乱を鎮圧しようとするでしょう。
恐らく、これまでにない大きな内乱となる。待ち望んでいた戦いが起きるのです」

狂人と罵ってくれて構わない。騎士が丸腰の、しかも王女を手に掛けるのだ。
後世の史書に悪し様に書かれても痛くない。大勢に埋もれて死を迎えることこそ彼の最も恐れるところなのだ。

「それは嫌よ」

「では死んでください。恐怖と苦痛の中で断末魔を上げて、私に斬られて下さい。
助けを呼び、哀れみを乞うて、抗いなさい」

「それも無駄よ。悲鳴を上げなければ誰も来ないもの。
貴方が夜にここに居ても、この館では誰も気にしないわ。オベルジーヌは拗ねてしまいそうだけど」

くすくすと笑い声が聞こえる。虚勢でも牽制でも何でもない素の笑みのように感じられた。
何故笑う。この状況で。悲鳴を上げない? か細い非力な女が何を言っている?
指の一本でも切り落としてみせようか。さすればそのような人を喰った口も利かなくなるはずだ。
王女のベッドの帳を上げる。幼さの残る顔がユークレースを見上げていた。

「なるほど。敗れはしたものの王族の矜持は尚も失われていないと……。
その誇りが死の恐怖をどこまで凌駕することが出来るか。見物ですね」

「死ぬのが怖いのは貴方ではなくて? ユークレース」

ベッドに押し倒し両腕を縫い付ける。ユークレースは曝された喉元に剣を押し当てた。
後はほんの少し力を込めて引くだけでベッドが血の海に染まる。
しかし、それでは駄目なのだ。王女を暗殺することが目的ではない。
王女は全く変わらぬ様子でからかう様に言い放つ。

「私が貴方なら、さっさと殺して首だけを持って往来を歩くわ。
そうすれば誰にだってわかる。王女を殺したのが誰なのか。どうしてしないの?」

「それは――」

「貴方は騎士でありすぎるわ。私を殺すことはできても、死体を辱めることはできないのね。
私に元から王族の矜持なんてないわ。騎士の矜持を捨てられないのも貴方の方なのよ。
貴女は狂人として死ぬことはできないのだわ」

可哀想に。

「私を、哀れみますか」

「愛おしく思っているの」

白い首筋に微かに血が滲む。官能的な光景だった。ユークレースは目的を忘れかける。
自ら押し当てていると気づいて、ユークレースは思わず剣を離す。
敗北感と絶望がじわりと胸に広がっていく。全てが無意味だと突きつけられたのだ。
王女は労わるように語りかける。

「機会はあるわ。騎士として死ねる場所が」

「私には時間が無いのです。もう命数が尽きかけている。
貴女さえ私の言うことに従ってくれていたら、大人しく悲鳴を上げて殺されてくれていたら――」

自分が騎士であるなどと思い出さずに済んだ。
手の中から剣が滑り落ちる。殺したいのではない。戦いたいのだ。
汚名でも構わない。戦って名を残して死にたい。
意味のある死が欲しい。ただベッドの上で死んでいくなど真っ平だ。

「エプヴァンタイユ。月の終わり。先の領主の命日」

王女は微笑む。

「貴方の望む戦いが起こるわ。中心にいるのは可愛らしい領主様よ」

殺すも連れて逃げるも好きにせよ。そう言われているような心地がした。

「それは――貴女の為の」

「いいえ。彼らの為よ。情報の筋は確かよ。何せ、国王陛下直属の諜報員から流されたものだから。
オベルジーヌの元にもリュシアンから手紙が届いているみたいね」

ごくりと喉を鳴らす。エプヴァンタイユの領主とは面識がある。
リュシアンはまだ年端もいかぬ子供だ。大人びていて落ち着いた雰囲気を身に纏っているが、
それは重責と政務で疲れ切っている為であり、内面は親を恋しがる普通の少年だった。
誰かに担がれたのか、それとも自らの判断か。どちらにしろ残酷なことをさせる。

「何故それを私に。私は貴女の都合通りには動きませんよ」

「私は何もしないわ。誰かに何かをさせることも、もうしないって決めているの」

王女は壁際の鏡台を示す。
その引き出しの中に、オベルジーヌから預けられた手紙があるらしい。
エプヴァンタイユ公の署名が入っているという。

「手紙はあげられないけれど、証明にはなるでしょう?」

「わかりました。信じましょう」

最早ユークレースには王女をどうにかする気持ちは無くなっていた。
代わりにエプヴァンタイユで起こるであろう反乱について、期待のようなものが湧きあがって来る。
リュシアンとの縁は浅くは無い。彼に差し向けられた刺客を斬ったこともある。
訪ねれば、恐らく信頼されるだろう。場合によってはまた彼の身辺警護を依頼されるかもしれない。
その時は――。

「ユークレース」

名を呼ばれ、頬を緩める。戦いだ。戦いが起きるのだ。
拘束していた王女の手を離した。愛らしい慈愛の王女などではない。禍々しい戦いの王女だ。
目が合う。蝋燭の僅かな灯りに照らされて、妖しく唇が弧を描いた。

「もういいでしょう? 遊びましょう」

王女の腕がユークレースの袖を掴む。
王女は笑っている。王宮の花と讃えられた少女のままに。

「貴女は狂っている」

言葉とは裏腹に裾をたくし上げ足を割り開く。
感謝など感じない。これは対価だ。そう自分に言い聞かせる。
本音は忌々しかった。忘れかけていたものを抉られ、それを嘲笑われたように思えた。
このまま衝動のままに凌辱してやりたかった。
しかし、そうすればこの王女はきっとさらに嘲笑うだろう。

「そうね。もうずっと正気でないわ」

王女の言葉は、どうしてかユークレースの胸を打った。


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