三匹の獣


小鳥がお庭にやってきた。

若様、腕から飛び降りた。

ものどもであえ。捕まえろ。

小鳥は驚き逃げたとさ。




「嫌な歌だ。そう思わないか、相棒」

我が物顔で肩に止まる相棒は不機嫌そうにガアと鳴いた。
まるで彼女に知らせるように。その不愉快な歌を止めろと。
しかし、歌は一向に止まりそうもない。同じフレーズを飽きもせずに口ずさんでいる。
バルコニーに通じる窓は開いており、傍らに生えた木が葉を揺らしていた。彼の相棒は再びガアと鳴いた。

「止めておけよ。喜ばせるだけさ」

レミーが言った通り歌は続く。先ほどよりも弾んだ声になったのは決して気の所為ではない。
彼の相棒は八つ当たりに気味にこめかみを突いた。痛いなとレミーは抗議の声を上げる。
相棒の機嫌が悪いのは今に始まったことではないが、彼女を前にすると一層機嫌が悪くなる。
黒翼の相棒は心臓を食い破りたくなるほど彼女を忌々しく思っている。
協会員を前にした時の方がまだ行儀が良い。

「余程怖いのかね。あんなお嬢さんが」

依頼主は王宮のお偉方。
城を追放された哀れな王女の様子を見て来いと云うのがレミーに課せられた任であった。
当然、ベルジュロネット公が素直に通すわけない。だから衛兵たちには眠って貰った。
今、この館では王女を除いて目を覚ましている者はいないはずなのだ。
不自然にガアガアと鳴くカラスを気にする者も皆無だ。
難なく庭に侵入し、件の人物の部屋を探り当てる。

フィーリアとは知らぬ仲ではない。王の試練の最中、一時期仕えたこともある。
見かけによらず狡猾な女だった。それ以上レミーが知ることは無い。
一度契約が切れた後は再度雇われることが無かったのだ。
政敵から送られたの間者だということが知られていたからかもしれない。
あれからさほど時間は経っていないというのに、国内の情勢は劇的に変わってしまった。
何となく感慨深いものを覚える。

「今じゃ、ただの地方領主の情人か。権力争いとは酷ものだな」

フィーリアの吸い込まれそうなほど澄んだ青い瞳。あれに囚われた男たちは多かった。
純粋な好意や忠誠だけではなく、憎悪や敵意すらも呼びこんでしまった。
レミーは敵意と恐怖の先兵だった。今更懐かしく思うほど美しい思い出を重ねてはいない。
相棒も嘲笑うかのようにガアと鳴いた。レミーは感傷的な自身を嗤う。

「わかっている。長居は無用だ。どうやら麗しのフィーリア様はご健在のようだし」

他に命令されたことは無い。ただ生きているかどうかを確かめればよいと言われた。
それが済んでしまえば後は用も無い。彼女の顔が見たいだと、声が聞きたいとか、
恋に浮かされた男のようなことを思うはずもなく、早々に立ち去るべく膝を伸ばした。
その瞬間、頭上より何かが落下してきた。相棒が飛び立つ。レミーは咄嗟に後ろに退いた。
草の中に何かが煌めいているのが見えた。レミーはすぐに警戒を解いた。
それはガラス製の香水瓶だった。どこも割れておらず、草の上に落ちたのが幸いであった。

「それ、拾って下さる?」

しまった、と思った。いつの間にか歌が止んでいる。
顔を上げると、フィーリアがバルコニーから体を乗り出して微笑んでいるのが見えた。
フィーリアの微笑みは王宮に居た時のそれと寸分も違わない。
美しく愛らしく、全てを包み込むようでいて、全てを嘲笑っているかのような底知れぬ笑み。
今も、少なくとも自身の境遇を嘆いている者のする笑みではなかった。

「レミーね。貴方のお友達のカラスも元気そうね。何か食べる? 果物ならあるわよ」

相棒が威嚇するように鳴いた。レミーは思い出した。
そうだ。フィーリアはいつもこうだった。自分と顔を合わせる度に肩の相棒に語りかける。
それがまるで子供にするかのような態度で、その度に相棒は機嫌を悪くしたのだ。

「お久しぶりです。フィーリア様、お元気そうで何よりですよ。相棒も残念がっています」

「レミーはいつもカラスと一緒ね。仲良しで羨ましいわ」

会うなりそれかとレミーは嘆息する。この王女は相棒を挑発する言葉に事欠かない。
相棒はガアガアがなり立てるのに飽きたのか耳朶を嘴で挟み込んでくる。
八つ当たりは止めろとレミーは相棒を指で弾いた。フィーリアは彼らの遣り取りを楽しげに眺めている。
こう云うところもおかしな王女だったとレミーは思い出した。

オウムやカナリアなど人語を話したり美しい声で鳴く鳥ならば、肩に止まらせ相棒と呼んでも、
まあ種族を越えた美しい交わりがあったものだと、納得する人間もいるかもしれない。
しかしこのカラスは愛想も無ければ心もねじ曲がり、人間の笑顔よりも悲鳴が好物というどうしようもない鳥なのだ。
喋らずともそれが滲み出ているのか相棒を歓迎する者はいない。フィーリアを除いては。

「私に何か御用?」

それが世間知らずゆえの能天気さであるならば、レミーもここまで警戒しないし、
相棒もここまで彼女を毛嫌いしなかっただろう。
フィーリアは、人柄のみが称賛された世間の評判とは裏腹に鋭敏な知性を持っている。
そしてそれを覆い隠為に善意や好意を振りまいていたように見えた。

「ええ。でも、もう済みましたよ。貴女のご主人様に見つかる前に退散したいのですが」

本心であった。相棒が本性を現す前に、己の心の平穏の為に早くこの場を去りたかった。
しかしフィーリアはレミーの思惑などどこ吹く風でにっこりと笑う。

「なら今度は私からの用事を済ませて」

何を、と口を開きかけたところでレミーは手の中の香水瓶に思い至る。
相棒が捨てろと喚く。レミーは小さく舌打ちした。バルコニーを見上げる。
フィーリアが気だるげに手摺にもたれかかっていた。貴婦人と云うよりも愛妾と云う言葉がしっくりくる。
バルコニーを飾るように木々が腕を伸ばしている様はまるで一枚の絵のようだった。

「投げますよ。取ってください」

「ダメよ。ちゃんと手で渡して。貴方も騎士様でしょ」

「そう言えばそうでしたね。自分でも偶に忘れてしまうんですよ。
で、主人の留守中に男を部屋に上げるのはどうなんです。あなたも王女様じゃなかったんですか? 」

「ああ、そうだったわ。私も偶に忘れてしまうのよ。私たち似ているのね」

フィーリアはくすくすと笑う。
さすがに屈辱に顔を歪ませるとは思っていなかったが、恥じ入るくらいはして欲しいものだ。
レミーは内心で独りごつ。まあいいと続ける。

「わかりましたよ。今お持ちします」

誘いに乗ってやるのも一興だと、止めろと騒ぐ相棒を説得する。酔狂だけではなく打算もあった。
上手くいけばベルジュロネット公の弱みを探れるかもしれないのだ。その情報は雇い主に高く売れる。
レミーは踵を返した。

「表にまわらなくても、ここから登れるわよ」

フィーリアはバルコニーにまで伸びた木を示す。

「へえ、僕に三文芝居の真似事をしろっていうんだね。フィーリア様は」

「ご主人様に叱られる衛兵や召使を増やしたくないの。それともレミーには登れなかったかしら」

「わかりやすい挑発をされなくても言う通りにしますよ」

いかにも登って下さいと言わんばかりにバルコニーまで枝を伸ばしている。
香水瓶を懐に入れ、幹に足を掛けた。いつの間にか相棒は肩から離れている。
枝を伝って手摺に手を伸ばし乗り越える。フィーリアは柔らかな笑顔で待っていた。

「ありがとう。レミー」

フィーリアは香水瓶を自身の鏡台の上に片付けてしまう。
フィーリアが踵を返した瞬間、髪の隙間から甘い香りが漂った。
レミーの知らないフィーリアの匂いだった。たぶんここの主人の趣味だろうと予想を付ける。
部屋の内装もベルジュロネット公の趣味が色濃く表れている。
見かけの陽気さとは裏腹に、あまり自由にさせて貰えないのだろうか。

「何か飲む? エクレールほど美味しい紅茶は淹れられないけれど」

「ああ、お構いなく。あの喧しい侍女殿もここに?」

「ええ。今は買い物に出かけているけれど。
それよりもレミー。わざわざ訪ねてきてくれたのだから、何かお土産話でも聞かせて欲しいわ」

「…そうですね。それはフィーリア様次第ですが」

やはりご婦人の気まぐれで招き入れたわけではないのだ。
敢えて危険を冒してでも、有能な諜報員の持つ情報を聞き出したいと思っている。
レミーは可笑しげに喉を鳴らした。小娘といえども権力に引き寄せられるのは同じだということだ。
一度蜜の味を知ってしまえば、狂おしいほどにそれを求める。それが人間と云うものなのだ。

「私次第?」

フィーリアは首を傾げる。その愛らしい仕草さえも仕組んだもののように思える。

「貴女自身にはさして興味を感じませんが、貴女が見てきたこと聞いてきたことには興味があります。
おっと、嘘は通用しませんよ。相棒は嘘が大嫌いでね。すぐに見抜いてしまうんですよ」

「見てきたこと聞いてきたこと? 昨日の夕食の内容でもお話ししましょうか?」

「いえ結構。そうですね、たとえば……最近貴女に会いにいらした方、とか」

「仕事熱心ね。レミーは」

毒々しい雌花と雄花、とレミーの雇い主は評した。王女とその飼い主のことだ。
言い得て妙だとレミーは思った。
ベルジュロネット公は元より、フィーリアにも生来の愛らしさに加え官能的な色香も備わっている。
その美貌と肢体で騎士を誘惑し、玉座を取り戻そうとしているという噂にも信憑性が増すというものだ。

「答えて下さらないなら結構ですよ。僕はこれでお暇させて頂きます。
貴女の飼い主に間男と勘違いされるのも面白くないんでね」

「せっかちなんだから。いいわよ。教えてあげる。
そうね、エヴァとはよく会うわ。この間も来て数日滞在して行ったの」

エヴァというのはエヴァンジルのことだ。
交渉や外交に長け、若手の騎士の中でも最も弁の立つ男として知られている。
彼にしてみればベルジュロネット公は本家筋にも当たる。
近くに来れば挨拶くらいはするだろうし、かつて従者をしていただけあって親しい間柄なのだから
滞在するのもおかしくはない。敢えて報告するほど不審な点は無いように思えた。少なくと表向きには。
他には、とレミーは促す。

「あなた」

「……他には?」

「後は知らない人よ」

「知らない人?」

「ええ。エクレールは教えてくれないのだけれど、たぶん暗殺者かしらね。
おかげで最近はあまり人に会わせてくれないの。退屈だわ」

平然とした様子で答える。レミーは一瞬絶句した。

「……心当たりは?」

「ありすぎて困ってしまうわ」

愚問であった。レミーの雇い主も刺客を差し向けても何らおかしくないのだ。
損得や利害に関わらず、彼の王女への敵愾心は傍目から見て異常なほどだった。
しかしあの男は冷静である。利用価値のある王女を殺すことは未だしないはずだ。
とすると他の誰かか。

「人気者は大変ですね」

「貴方ほどじゃないわ。今度は私の番。貴方の話を聞かせて」

「……情報なら高くつきますよ。払えなければお命を頂きますが」

「只のお話で充分よ。何の話をしてくれるの?
怖い話? おぞましい話? 残酷な話? 身の毛のよだつ話?」

寝物語を聞く子供のように、フィーリアは目を輝かせている。
ふと思う。この瞳が恐怖に歪むことがあるのだろうかと。

(宝石と毛皮に囲まれて育った箱入りの小娘が)

さしたる家禄も無く、猫の額の様な土地を治めていた家の生まれであったキルミスタはレミーの前身だ。
そのキルミスタの部分は王女に憧憬ではなく忌々しさを覚えている。
そして黒翼の魔将と恐れられていたレミィの部分は、人間の小娘の分際でと嫌悪感を覚えている。

(そこにいるだけで、面白いくらいに僕たちを揺さぶる)

しかし、二つが一つとなったレミーは、この王女に別の興味を抱いている。
この娘を突いたら、どれほどの悪意や憎しみが溢れだすであろうかと。
世が混沌になればなるほど、レミィは満たされた心地がする。一方のキルミスタは立身のチャンスだと捉える。
我ながらどうしようもない二匹の獣がくっついたものだと自嘲する。

「そうだね。それじゃあ身の毛のよだつ話でもしようか」

「あら楽しみね」

レミーは何とも言えない気分になる。

「あるところにつまらない男がいた。男は騎士だった。
でも、剣の腕はからきし、家柄も木端騎士の家で、唯一の武器の弁舌も精々詐欺師になるのが関の山な体たらくだった」

レミーはフィーリアの反応を窺いつつ、ぽつぽつと語り始める。

「男は出世を夢見て家を飛び出したが、何の後ろ盾も無くこの国で成り上がるのは不可能に近い。
並みの功績じゃあ、誰の目にも止まらないことを理解していた。
いっそのこと乱でも起きればいい。また黒貴族が復活してくれれば出世の機会も巡って来る。
そんなことすら思っていた。どうしようもない愚かな男だったのさ」

「ある日、男は思い立って冒険に出掛けた。古い遺跡だ。何か財物でもあればいいと軽い気持ちだった。
それが全ての間違いだった。男は死んだ。気の狂った騎士に斬られて。
財宝を独り占めする為じゃない。ただ殺したかった。それだけだったのさ。」

でも、とレミーは薄笑いを浮かべた。

「男は生き返った」

「良かったわね」

「良くはないさ。人間の分際で蘇ってしまったんだ。そいつはもう人間なんかじゃない。
楽しいことを楽しいという気持ちも、美しいものを美しいと感じられる心も失くしてしまった。
もう人間の中では暮らせない。そいつはね、生ける屍となったのさ。
でもそいつは満足だった。下らない人間の業から解放されたんだからね」

フィーリア様も、とレミーは王女に向き直る。

「檻から出たければ人間など止めてしまえばいい。簡単なことさ」

「こうして誰かが来てくれる限り、そこは檻なんかじゃないわよ」

「そうでしょう。貴女を抱いた男たちの体は冷たくはなかったんでしょうけれど。
でも死んでしまえば体は冷たく石の様になります。もう女なんて抱けないんですよ」

「本当に?」

フィーリアがレミーの瞳を覗き込む。ここまでの接近を許したことはどうでもいい。
レミーは王女の嫋やかな手を掴む。逃げられぬよう力を込めた。

「ここで貴女を手籠めにすることは簡単です。それこそ貴女は身の毛のよだつ思いをする。
貴女に消えぬ傷を付けることは、たぶん、雇い主の意向にも反していないでしょうし」

フィーリアの瞳は相変わらず透明なままだ。澄んだ湖の様な色に恐怖は浮かんでこない。
急にレミーは興醒めした。馬鹿馬鹿しいと内心で吐き捨てる。

「レミー」

手が握り返される。振り払おうと思う間もなくキスをされる。
冷たい唇と体に反して人の体温が纏わりついてくる。唇はすぐに離れた。
レミーはありったけの忌々しさを込めて王女を見下ろした。

「僕を挑発しているんだったら大したものですね」

「どうせだったら私は楽しみたいの。冷たい体は暖められるわ」

動揺したのは果たして人間の部分だけだったか。常に冷たい計算をしている彼の脳は一瞬凍りついた。
静寂を破るかのように、ガアと相棒が鳴いた。鳴き声に交ざって殺せと喚く声も聞こえる。
レミーは手を振りほどいて踵を返した。

「むざむざと毒牙にかかる趣味はありません。そろそろお暇させて頂きますよ。
それとこれは僕の勝手な想像ですが、暗殺者はたぶんゲルツェンかブエンディアの者でしょう。
貴女を殺せば王に嫌疑がかかる。あとはほんの少し煽ってやれば、内乱に持ち込ませることが出来る。
せいぜい身辺にお気を付け下さい」

「ありがとうレミー。またいらしてね」

二度と来るものか、と心中で吐き捨て、来た時と同じように木を伝って降りる。
既に人間としての活動を止めたレミーの体は汗を掻くことは無い。
どんな時も冬の岩山のように冷たく凍りついている。
それがこれほどありがたいものだとは知らなかった。

(本当に恐怖を一片も浮かべず誘って来た)

レミーは戦慄を禁じえなかった。屋敷の門を潜ると、どこからともなく相棒が舞い降りてきた。
相棒は来た時と同じように不機嫌だった。腑抜けた面を晒すなと彼の頭を突く。

「わかっているさ。でもね、彼女はたぶんこちら側に足を踏み入れているよ。
まるで、人間じゃないみたいだ」

レミーの呟きは青い空に吸い込まれた。



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