私の目は私の手



視覚から美を感じる術を彼は持たない。
他人が美しいというのを聞いて、何故美しいのか、どのように美しいのかを尋ねて理解する。
一度で理解できない場合は重ねて、一つの見方で満足できない場合はまた別の者を掴まえて。
彼はそうやって身の回りのことを理解しようと努めてきた。
きっと彼の中には、目が見える者と比べても遜色ない世界が構築されているのだろう。
彼にとって見えるか見えないかは大した問題ではないのかもしれない。

思索に耽っていると、フィーリアと名前を呼ばれた。
目の前の人間をさしおいて一人考え込んでいることに気づかれたのだろうか。
けれども、その考え事も当の本人のことであるのだから罪は無いとフィーリアは思う。
事実クレメンスに不満げな色は無く、いつも通り凪の様に穏やかな表情をフィーリアに向けていた。

「何かしら。気になる音でもあったの?」

昼下がりのテラスは鳥のさえずり以外は聞こえない。静かなものだった。
苦笑したクレメンスは首を横に振った。カップの傍に置かれていた手が所在無げに彷徨う。
フィーリアは導くようにクレメンスの手と重ねた。こうしてお茶をするのは何度目だろうかとふと考える。
不思議とクレメンスは盲目だからと云って、テーブルの上で粗相をすることは無い。
同い年の幼馴染の少年の方がカップを落としたり、食器を鳴らしたりと余程騒がしい。
クレメンスの手は不思議な力に導かれているかのように正確だった。
こうして彷徨う時は決まってフィーリアの手を求めている時なのだ。

「いいえ。いつもよりお静かなのでどうにも気になりまして」

「あら、私だって淑女なのよ?」

「存じております。城の侍女たちが騒いでおりますよ。陛下はこのところとみにお美しくなったと」

まあと口元を抑える。本当にお喋りな侍女たちだこと。
それがもし本当だとしたら、誰のお蔭なのか。この人はわかって言っているのだろうか。
陛下とクレメンス卿は好い仲なのだと最初に騒ぎ始めたのは誰だったか。
それが真実であると吹聴することも、馬鹿げた噂だと火消しに回ることもしなかった。
物事はあるがままで良い。奇しくも二人は同時にそう結論付けた。

かつての彼であったら否定していただろう。
あるがままを受け入れてしまえば、彼は本から知識を得ることも、騎士であることも叶わなくなってしまう。
生まれながらにして盲目であることを強いられた彼には無慈悲な言葉として聞こえたに違いない。

「私もそう思います。あなたはお綺麗になられた」

政治の世界で生きるようになり、あるがままでいることがどれだけ難しいか痛感した。
フィーリアの冴え渡った知性は世の不条理を呑み込まなければいけないことを理解させ、
統治者として称賛されるべき理性は彼女の生来の気質や生の感情を覆い隠した。
仕方が無いことと納得しているものの、せめて愛する人の前ではあるがままの自分でいたい。
そんなささやかな願いにクレメンスは頷いてくれた。

フィーリアははにかみ俯いた。
これが舞踏会における貴族や高官であるならば、優雅に微笑んであしらわなければならない。
内心で如何に聞き飽きた世辞に辟易しようとも仮面を被り続けなければならないのだ。
フィーリアが照れていることを悟ったのか、クレメンスは屈託なく微笑む。

「照れていらっしゃいますね。そういうところはお変わりない」

どうして分かってしまうのだろう。協会から与えられた神秘の力はもう無いというのに。
代わりに目となっているのはフィーリア自身だ。
読みたい本に始まり、目の前で繰り広げられる芝居、季節の花々や舶来の工芸品など、
フィーリアが紡ぐ言葉によってクレメンスは理解する。
しかしフィーリア自身に関しては、クレメンスは知る術を持たない。
フィーリアは意図して自身のことを語るのを避けていた。
見栄や謙遜を取り除いて、自分のことをクレメンスに伝えるのは存外に難しいものなのだ。

「あなたに、わかるの?」

それがどちらの問いに対する疑問かは言わなかった。
クレメンスは正しく汲み取ってくれた。

「勿論、と言いたいところですが生憎声や気配で察することしかできません。
それでも、試練の最中あなたにお会いした時、この方はきっと美しくなると予感いたしました」

手はずっと重ねられたままだった。
いつでも手を離すことが出来るというのに、余人より多くの情報を読み取って来た彼の手は、
汲み取って来た知識の数だけ不思議な力をたくわえているような気がした。

「あの時の私が?」

試練の始まった頃と云えば、宰相には碌に言い返すことも出来ず、
貴族たちの探るような瞳に脅えを隠せなかった王女だった頃の話だ。
取り柄と言えば読書家であることと、物事を突き詰めて考えることに喜びを見出いしていたことくらいなものだ。
その所為で変わり者と見られていた節があったが。
身もふたもない言い方をしてしまえば、華も無く、強烈な個性も無い、多少見栄えのする程度の
目立たない存在でしかなかった。

「ええ。理屈ではなく直感のようなものでしたが。当たっていますよ」

「本当かしら」

彼らしくない物言いが無性に可笑しい。フィーリアの忍び笑いはクレメンスの耳にも届く。

「あなたも悪いのですよ。私はあなたの美しさをエクレール殿の口からしか伝えられていない」

「それじゃあ誇張が過ぎてしまうわね。身内の欲目もほどほどにして欲しいわ」

エクレールの口から語られるフィーリアは騎士王よりも勇敢で、どの聖騎士よりも知恵者であり、
オクタヴィアよりも美しく可憐で慎み深いのである。
クレメンスが笑い交じりでそう告げると、フィーリアは頬を赤らめた。
彼女のフィーリアに対する美辞麗句は尽きることを知らないのだ。

「エクレールには褒め殺しと云う言葉をよく教えておきます。だから忘れてちょうだい」

「やはり自分で得た知識の方が信用できます」

クレメンスはテーブルの上で繋がれていた手を放す。
フィーリアが寂しく思う暇も無く、こちらへ来て貰っても構わないかと尋ねてくる。
返事をする代わりに席を立ち、テーブルの向こう側へ回り込む。
より近くなったクレメンスが真剣な面持ちでいることに驚いた。

「もっと近くへ。フィーリア」

言われた通りに近くへ寄る。
クレメンスの瞳は固く閉じられているというのに見つめられている心地がした。
フィーリアは視線を逸らす。これほど間近でこの男の顔を見たことは無かった。
もっと近くへと云う言葉に従っているうちに、鼻先が触れあう距離まで詰め寄ってしまっていた。
吐息の気配を感じているはずなのに、クレメンスは涼しげな顔を崩さない。
まるで自分だけが悪いことをしている気分だった。
フィーリアは居た堪れなくなり制止の意味を込めてクレメンスの肩に手を置いた。

「触れてもよろしいですか?」

クレメンス、と訴える。

「お嫌ならば、このまま離れて下さっても結構」

「知識を得る為に? 私はあなたにとって好奇心の対象でしかないのね」

「恋は好奇心の入り口、より知ればその果てに愛があるのだと思います。
私の答えはご婦人を満足させるには足らぬものでしょう。ですが私にとっての真理です」

「ならば人は永遠に愛へ辿り着けないわ。だって人の好奇心に終わりは無いのだもの。
どうして終わりが無いかご存知? それはね、変わらないものは無いからよ。
あなたの好奇心が少し怖いわ。変わっていく私はあなたの興味をそそる対象なのかと」

クレメンスは微かに笑った。

「無用の心配です。あなたは少し誤解なさっている。
私はただ純粋にあなたに触れたかっただけなのです。
余人ばかりが陛下の美しさを噂し、私ばかりが蚊帳の外というのは些か気分が悪い。
それにいつも触れてくるのはあなたばかりではないですか。これでは不公平と云うもの」

両の手の平で頬を包む。
口ではもっともらしいことを言いながら、探るような手つきだ。
かつてこの男は文字に触れるだけで何が書かれているか読み取ることが出来た。
協会から貸与された神秘の力だと聞いた。その力は既に彼の元には無いようだが、
その時の癖なのか、今も人差し指の先だけで輪郭をなぞってくる。

「私がわかる?」

「わかりますよ。柔らかくて滑らかで、とても快い。
私は書を読むばかりで、美を解する心が豊かとは言い難いのですが、美しいと思います」

クレメンスと云う人はこんなにも扇情的に触れる人だっただろうか。
普段と幾分も変わらない理性的な口調とは裏腹に情念が籠っているように思えた。
クレメンスをよく知っているフィーリアにしてみてもそれはどこかちぐはぐな印象を与えた。
フィーリアが恋愛沙汰に疎い乙女である為余計にそう思えた。
少し前まで、男とは家族と本の中に出てくる騎士くらいなものだったのだ。

「……失礼。少し、性急に過ぎましたね」

構わないわ、と言おうとしたが声が出なかった。
そこでようやくフィーリアは自分が緊張していたことに気が付いた。
クレメンスの肩に置いていた手を下ろし、早鐘を打っている自分の胸に当てる。

「触れずとも聞こえてしまうことは幸いなのか――…。お嫌でしたか?」

「いいえ。少し、驚いただけなの。嬉しかったわ、クレメンス」

「良かった。あなたに嫌われてしまったら本末転倒と云うもの」

少し散歩でもしましょうかとフィーリアに手を伸ばす。
フィーリアは躊躇うことなくその手を取る。クレメンスは女王に柔らかな微笑を向けた。



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