Kiss me

ターブルロンドの若き女王フィーリア。
先王である父の急死との兄王子の失踪により、急遽王位を継ぐことになった少女。
ターブルロンド王室の可憐な花と呼ばれた少女は、即位後ターブルロンドの女狐と呼ばれるようになった。
内においては改革の鉈を振るい、外においては時には餌を、時には甘い罠を以て、狡猾な外交を繰り広げた。
未だ少女と呼ばれる年齢でしかない女王は、政治の世界で逞しく生きていた。
昔と同じ可憐な笑みを浮かべながら。

虎視眈々とその領土を窺う周辺国は当てが外れた。
即位前より異論の噴出していた王女の即位。
細腕の少女が国を治めるなど、スズメが鷹を従えようとするのと同じことだと高を括っていた。
いずれ貴族たちの反乱で国は分裂する。事実そうなりかけていた。
しかし蓋を開けてみれば「王の試練」と呼ばれる茶番は、王女が聡明さと騎士王の末裔たる底力を見せつけ、
主だった諸侯たちが王女に頭を垂れるという結果で終わったのであった。
反王女派の筆頭であった宰相ディクトールや闇の王ヘルゼーエンまでもその傘下に入った。

ターブルロンドは力を付け始めている。
今までの凶事が嘘であるかのように、国内は女王の即位以来安定を取り戻していた。
女王も民衆からよく愛されていた。しかし、若くして台頭する者にはいつも黒い噂が付きまとう。
フィーリアもその例に洩れなかった。
それは、か弱き民衆にとっては酷くおぞましく、許し難い内容を孕んだ噂だった。
きっとそれは他国の間者が流したものだ。女王様がそのようなことをなさるわけない。
無垢な民衆たちは信じなかった。しかし真実は宮廷の奥にあるのみ。誰も知りようがない。
噂は水面下で広がっていた。当然女王の耳にも入っている。しかし女王は意に介さなかったのである。

「陛下はどちらにおいでか」

「陛下はお休みになっております。ご用件なら私が承りますが」

宰相ディクトールは忌々しげに若き執政官を見た。
淡々とした表情からは何も読み取れず、昨今宮廷を騒がせている主君の不名誉な噂など知らぬと云った風情だ。
ディクトールは出かけていた皮肉を引っ込めた。
この男に八つ当たりをしてもしょうがないということはよくわかっている。
代わりに事の真偽をこの男の口から確かめようとした。

「質問を変えよう。陛下は何をなさっている」

「お客人とご一緒です」

名を言わない所が、暗に女王の私的な領域であると示唆している。
ディクトールは今度こそ本当に舌打ちした。噂は本当だと言っているようなものだった。
女王が私的な用件を優先させることなどほぼ無いと言っていい。
かつて王の試練を支えてくれていた騎士でさえも、筋を通さなければ決して対面できない。
それも謁見と云う形のみ。ましてや以前のように私室で親しげに歓談するなど夢のような話であった。
女王が公務を放り投げてでも優先させる人物は一人しかいない。
父祖の宿敵であり、且つ同盟者でもある男。忌まわしき黒貴族。

「一つ聞く執政官。今は誰が陛下の御身をお守りしている」

「人払いがされているかと。騎士を帯同したところであの方にとっては何の意味もございません。
それに、陛下は誰かに耳をそばだてられるのがお嫌いなのです。
機嫌を損ねて、以前のようにマンハイムに移動されたら、そちらの方こそ手の出しようが無くなります。
宰相殿の仰りたいことは重々承知しております。ですが、今はあの方も剣を捧げた領主の一人なのです。
陛下が信を置かれるならば、我らはそれに従うべきかと存じます」

「闇の者の誓いがどこまで続くのか、隣国にとってはさぞ見物だろうよ。
こちらとしては、せめて陛下の御代の内は大人しくして貰いたいものだが……。
所詮怪物を倒すのは英雄。英邁な君主でも有能な臣下でも無い。ましてや腑抜けた騎士どもでもな」






微睡みの中から意識が掬い上げられる。フィーリア、とどこかで名前を呼ぶ声が聞こえた。
瞬きをする度に朦朧としていた意識がはっきりしてくる。
鼻腔を掠める紅茶の匂いがフィーリアを完全に覚醒させた。いつの間にか新しい茶が湯気を立てている。
どれくらい眠っていたのかしらと目の前の横顔を見つめながら考える。
象牙を彫り上げたような白皙の美貌が視線に気づき微笑む。フィーリアも微笑み返した。
ヘルゼーエンは手を伸ばしフィーリアの頬に触れる。そのまま頬にかかった髪をかきあげた。

フィーリアは体を起こし居住まいを正す。
少し前までは長椅子に並び、異国から特別に取り寄せた茶を楽しみながら優雅なひと時を過ごしていた。
それがいつの間にかこの男の腕に甘えるように寄りかかっていた。
それだけでもまともな神経の人間が見れば悲鳴を上げるところであるが、
フィーリアはさらに眠気に誘われるまま、こともあろうに吸血鬼の膝の上で眠ってしまったのだった。

「全くこの国の騎士も存外不甲斐無い。可憐な女王陛下をここまで働かせるとは」

肩にはこの男の外套が掛かっている。
豪奢な衣装を脱いでしまえば、ヘルゼーエンを常に覆っている隙の無さが薄くなる。
黒曜城の奥でもこうして寛いでいるのかしらと新鮮な気分になる。

「ごめんなさいね。あなたを放って置いてしまって」

「良い夢は見れたかい?」

ええとても、とテーブルの上のカップに手を伸ばす。
心地の良い香りが疲労した神経を優しく撫でる。

「それは良かった。膝を貸した甲斐があったというものだ」

「最高の贅沢よ。ありがとうヘルゼーエン」

闇の王の膝を借りて眠りに落ちることが女王の特権ならば、この世の誰も至上の贅沢を知らないことになる。
フィーリアはその特権を誰に憚ることなく堪能していた。

「君が私の花嫁になれば君の眠りを妨げるもの全てを消してあげようというのに」

「それではつまらないわ。困難があればこそ仕事は楽しいのよ。
私は毎日が楽しくて仕方が無いわ。疲れてもこうしてあなたの膝を借りられることだし」

起こしてと手を伸ばす。甘ったれた子供のような仕草にも男を惑わす色香があった。
ヘルゼーエンは微かな喉の渇きを覚えた。当然素直に起こすはずもなく、
手を引き躊躇うことなく腰を掴むと、そのまま膝の上に乗せてしまう。
フィーリアは恐怖に戦くでもなく、あろうことか恍惚とした表情を浮かべる。
するりと伸ばした腕が首筋にまわる。慈しむかのよう男の長い髪を掬った。

「このまま玉座までお送りしようか」

ヘルゼーエンは膝の裏に入れていた手を徐々に下へ降ろす。
ドレスの裾が乱れ秘すべき場所に近づいていくも、フィーリアは恐怖にひきつるどころか楽しげに笑う。
触れられることに喜びを感じている様だった。

「ふふ。ヴィンフリートが目を回してしまうわね」

「何人の男が嫉妬に狂って私に刃を向けて来るか見物だ。
冗談はさておき、そろそろ私を呼びだした用件を尋ねたいのだが、よろしいかな」

女王は目を丸くする。
膝裏からそっと手を抜き取ると、目を瞬かせる女王の頬に口づけを落とす。

「君が私に甘える時は、私に面倒事を押し付けて来る時と決まっている。
そのとろけるような瞳で可愛らしくおねだりをされるのは中々気分の良いものだが」

身を乗り出して口づけを返す。鳥のさえずりのような音が響く。
何度も触れ合った恋人同士の様に微笑み合う。

「そんなことないわよ。
あなたにお会いしたついでに頼みごとをしているのであって、その逆では無いわ。
でもそうね。楽しい時間はそろそろ終わりにしないと。
ここからはあなたにとって退屈な政治の話。ゲルツェンのことなのだけれど――」

王妃の動きが不穏だ。国内の闇の者たちを集めて軍に編入しているらしい。
その筆頭の人狼将軍が一軍を率いて近々ターブルロンドに攻め入るのだという。

「成る程。闇の者同士つぶし合ってくれということか。
かの人狼将軍は私にも縁がある者だ。良いだろう。楽しませて貰うよ、フィーリア」

「それとね、もう一つ。
闇の者が一つの所に集まってくれているなら好都合。王妃に一泡吹かせてやりたいと思ってるの。
ねえヘルゼーエン。あなたの所のドッペルゲンガーの彼女、私に貸して頂けないかしら」

「困るな。私の楽しみを奪って貰っては。久しぶりの戦争に私も心が躍っているのだよ。
案ずることは無い。私の女王陛下。君の望みは私が叶えてみせよう。
ゲルツェン王妃の集めた闇の者の反乱。かの美しい顔が歪む様を存分に見せてあげよう」

肩に落ちる金色の髪に手を差し込む。
壊れ物に触れるように頬を撫でていたそれが顎を滑り唇に辿り着く。
物欲しげな赤い瞳と共に唇がなぞられ、喉を伝い襟元に落ちる。

「ありがとうヘルゼーエン。私は玉座で吉報を待つわ」

「私の花嫁は全て私のものだ。たとえ君であろうとも使うことは許されない。残念だったな」

何か言い募ろうとするフィーリアに、幼子にするかのように唇に指を当て言葉を封じる。

「君は底が知れない。まるでかの騎士王のようだ。強大な力の誘惑に微塵も揺らがないところが特にだ。
強く賢く強かで可憐で、冷酷で優しい、愛おしくもあり憎らしくもある。
好きだよ、フィーリア。壊してしまいたいほどに」

「嬉しいわ。私もあなたが好きよ」

男は愉快気に顔を歪める。
ただし先に見せたものよりも倒錯した感情が入り混じる。

「本当に。闇の王すら利用する強かさに舌を巻いているほどだ。
フィーリア。私のプロポーズに決闘を以って答えた王女。君は私を下して女王になった。
約束通り私は君に仕える一人の騎士だ。だが君に逢う度想像する。
君が私の膝元に屈服する様はさぞかし愉快であろうと。
君ののたまう可愛らしい嘘ごと喉を引き裂いてその血で喉を潤したくて堪らないのだ」

フィーリアの表情が悲しげに歪む。吸血鬼に寄り添ったまま口を開いた。

「私はあなたが好きよ。あなたのプロポーズに心を動かされたのも本当よ」

「今さら言葉の真偽を問うつもりは無い。君は勝ち、私は負けた。
今はただ次のゲームの機会が巡って来ることを願うばかりだ。
フィーリア、私はまだ諦めてはいない。次は私が必ず勝つ」

退屈なのかと問えば張りついたような薄笑いを浮かべる。
満たされ過ぎて満たされていることの意味すら忘れてしまった哀れな男。
好きで堪らないのだ。

「あなたが私の本当に欲しいものをくれたら、あなたの花嫁になってあげる」

男は何と聞き返す。戸惑いを余所に女王は頬に触れる。

「あなたの好きなゲームよ。タイムリミットはあなたが飽きてしまうで。どうかしら?」

「君は自分の言っていることを理解しているのかね。
私に己が身を賭けると宣言することの意味を。それを知って尚、ゲームを仕掛けると?」

「ええ。あなたが本当に欲しいものを私にくれるのならば、プロポーズを受けます」

「果たして勝敗の決し方は公平であるのか。君が首を縦に振らなければ、決して負けることは無い。
私は女王の忠実な騎士のままであり続けるというわけだ」

「それは大丈夫。きっと心が蕩けて何も考えられなくなってしまうもの。
安心して。星を取ってきて何て無理を言うつもりは無いから」

ヘルゼーエンの表情が微かに揺らぐ。フィーリアは気付かないふりをして身を寄せる。

「ドレスに宝石、絵画に彫刻、異国の工芸品に美食。
手に入れた先から他者へ分け与えてしまう君の望むものか……。いいだろう。面白そうだ。
フィーリア、約束は必ず守ってもらう。私も約束は守ろう」

名誉も領地も、いずれは玉座さえも分け与えてしまうのではないか。
無私であることが王の条件であり、質素であることが名君の条件ならば彼女は既にそれを満たしている。
敢えて手を伸ばすものが形無きものであるのならば、彼女は真に騎士王の生まれ変わりである。

「そろそろ政務に戻らなければならないわ。名残惜しいけれど甘い時間はここまでね」

するりと男の膝の上から降りる。
失った体温を振りきるかのようにヘルゼーエンもまた立ち上がる。

「私も失礼するよ。女王陛下の敵を打ち破る備えをしなければならぬ。
また会える日を楽しみにしている。その時こそ、君が私のものになっていることを祈るよ」

「気を付けて。あなたに騎士王のご加護があらんことを」

頬に触れる祝福の口づけはすぐに離れてしまう。

「君も楽しみにしているといい」

「私も楽しみにしているわ。でもね――」

わかるはずがない。
女王の浮かべる寂しげな微笑みはヘルゼーエンの脳裏に強く焼きつく。
何が欲しいのか、何を望むのか。答えは瞳の中にあるもの。
互いの姿を瞳の中に写し、二人は別れを告げた。



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