いつまでも一緒

ようやく会える。涙が河となり頬を伝って零れ落ちていく。
命よりも大切な方、離れ離れとなり、人を介してでしか近況を聞くことができなかった方。
愛しい御方。誰よりも大切な方。あの人の為だったら喜んで命を投げ出せる。

姫様―――!

受け取った手紙に書かれていたのは紛れもなく王女の字。
ベルジュロネットに身柄を預けられているフィーリアのものだ。
見間違えるはずもない。幼い頃から共に机を並べて、家庭教師の授業を受けて来たのだから。
王女の使う私的な署名も記されている。本当に、本物のフィーリアの手紙だった。
手紙には、無事にエクレールの元に届けられたことへの感謝から始まり、
己の近況とエクレールの息災を願う内容が書かれていた。
そして何よりも驚いたのはその続き。本当に些細なことであるかのように簡潔に書かれていた一文。

『側に侍女を置く許しが得られました。既に迎えは送ってあります』

またお側でお仕え出来る。パアっと目の前に光が満ち溢れたような気がした。
剣の誓約の日からずっと暗い洞穴の中を歩いていた。出口の無い道を。
それが今、ようやく日の当たる場所に出られたのだ。
離れ離れになるなんて身を引き裂かれるほど辛かった。
それでもフィーリアが平穏に暮らせられるならば堪えられることも出来た。
しかし、あの悪辣な男はそんなささやかな願いさえも踏み躙った。

こともあろうに最も危険な男の元にフィーリアを預けたのだ。
可憐な王女に汚らわしい劣情を抱く男。ベルジュロネット公オベルジーヌ。
その名を聞いた時は蒼褪めた。そして確信した。
あの男、王となった男はフィーリアを亡き者にしようとしているのだと。
しかしフィーリアは粛々と運命を受け入れた。別れ際に「元気で。また会いましょう」と告げて。
悲壮感も何も無かった。次の年の同じ日にまた会えると確信しているかのよう。

それからは手紙を出すことさえ禁じられていた。噂でしか近況を聞くことができなかった。
その噂も碌でもないものが多く、既に殺されてしまったなど、ベルジュロネット公の愛妾となっているなど、
もうすぐ王となった男と婚約するなど、一日も心休まる日など無かった。

だがそれも終わった。不安と孤独に苛まれていた日々は終わった。
会える。ようやく会える。またあの可憐な笑顔に会うことができる。
金色の髪を梳き、白い背中を流し、安らかな眠りにつけるよう茶を淹れることができる。
当たり前の日常がまた戻って来るのだ。こんなにも嬉しいことは無い。

迎えの馬車はその日の内にやって来た。エクレールは迷わず乗った。
そして数日後、馬車はベルジュロネット領主の屋敷に到着する。



姫様はどこ? 姫様は――。
エクレールは馬車から降りるなり辺りを見回す。
相変わらずの陰気な屋敷。地下にあるサロンと云う名の牢獄は領主のお気に入りの人形を愛でる場所だ。
王女は丁重に扱われているとエヴァンジルから聞いた。だから安心していいとも。
安心などできるものか。オベルジーヌがどういう男か。考えただけでも怖気が走る。

「ご案内させていただきます。エクレール様」

今すぐにでも飛び出していきたいところであったが、エクレールは素直に案内を受けた。
案内されたのは屋敷の奥。主のコレクションで飾り立てられた廊下を抜け、
バラの意匠がなされたドアの前で止まる。案内の者はエクレールを残して戻って行った。
俄かに緊張する。この扉の向こうにフィーリアがいる。待っててくれている?
王にさせることも、その身を守ることも叶わなかった私を本当に受け入れてくれる?
エクレールは意を決して扉を叩いた。

「姫様。エクレールです。姫様」

入って、声が聞こえる。紛れもなくフィーリアの声。
姫様。感極まり扉を開ける。

「エクレール。よく来てくれたわね」

「姫様!」

金色の髪に顔を埋める。知らない香水の匂いを漂わせた、知らないドレスを着た人。
されど愛しの姫。ようやく、ようやく会えた。
フィーリアの手が泣きじゃくるエクレールの背中を撫でる。変わらない優しい手だ。

「ごめんなさいね。本当はもう少し早く呼ぶつもりだったのだけど。
一人で心細かったでしょう。でも、もう大丈夫よ」

「私の方こそ…。お守りできず本当に申し訳ございません。
本来ならば玉座に座っているはずの御方が、このような辺境の一領主の……」

わかりたくないけれどもわかってしまう。
香水もドレスもフィーリアの選んだものではない。
それが意味することも。

「エクレールは良くやってくれたわ。全て私の所為なのよ。だから気にしないで。
それに、ここの人たちはみんな優しくしてくれるから、不満なんてないわ。
色々な人が私を訪ねてきてくれるし退屈もしないのよ」

こうしてエクレールも来てくれたことだし、と付け加え改めて抱きしめる。
良い香りに包まれ頭が痺れそうだった。
もうご結婚されてもおかしくない年だというのに少女のような奔放さは相変わらずだ。
王の試練の最中も気まぐれで世知に疎い為政者と見せかけて、その統治は優しさと狡猾さで満ちていた。
好き。好きだ。どんなフィーリアも大好きだ。たとえ別の誰かのものとなってしまってもそれは変わらない。

「また一緒にいてくれるかしら」

「勿論ですわ。姫様が嫌って仰っても離れません」

フィーリアは目を細め微笑む。この微笑みに誰もが魅了されてきた。

「良かった。今日はずっと一緒にいましょう。昔のように。
一緒に食事をして、一緒にお着替えして、一緒のベッドで寝ましょうね」

まだエクレールが姫と呼ばれていた頃、ずっとそうやって過ごしていた。
懐かしい気分になるもエクレールは苦笑して首を横に振る。

「それはとっても嬉しいのですけど、それでは姫様のお世話ができませんわ」

「エクレールは何もしないでいいの。私がエクレールの代わりをするから。
今までのお礼よ。今日は私がたっぷりとお世話するからね」

初めは冗談かと思った。
姿形を入れ替えて遊んだことは何度もあるが、役割を変えたことは一度も無い。
しかし、着替えに始まり給仕や沐浴に及ぶに至って、フィーリアが本気であると悟った。
途中何度も口を挟もうかと思い悩んだが、余りにも楽しそうな様子に口を噤むほかなかった。
何よりも、誰かの手で世話をされるのは本当に久しぶりで、それが愛しのフィーリアの手であることが、
余りにも快くて振り払うことができなかった。

着替えは幼子にするように優しく、給仕はただ配膳するだけでなく、傍らで見守っていてくれた。
遠い昔に亡くなった母のように。知らないはずだ。会ったことも無い。けれどもよく似ている。
沐浴は、素肌を見られるのが恥ずかしかった。逆だったら良かったのに、と心から思った。
背中を流す手が肌に触れる度、心臓が高鳴った。とても畏れ多いことをしているように思え、
それでいて泣きたくなるほど嬉しいことが起こっているような心地がした。

「姫様、くすぐったいです」

「我慢して、エクレール」

大理石の浴室は声がよく響く。くすくすとフィーリアの笑い声が反響した。
何故だか恥ずかしくて堪らない。消えてしまいたいくらいに。
思わず俯く。水面に波紋が生じ、フィーリアの姿を掻き消す。
本当に、どこへ行っても変わらない方。どこにいても、どうあってもフィーリアはフィーリアのままだ。

「エクレール!?」

思わず浴槽に顔を静める。歪んだ視界のなか気泡が浮かんでいくのが見える。
ぷはあと顔を上げた。フィーリアがしきりに瞬きし、驚いた様子でエクレールを見ている。
この方のこんな顔は貴重だ。ただ泣いている顔を見られたくなかっただけなのに得した気分だ。

「もう。そんなに浸かったらふやけてしまうわ。さあ、もう出ましょう」




良い匂いがする。フィーリアの匂いだ。
最初の宣言通りベッドも共にしてしまった。姫様の望みとあらば抗うことはできない。
幼い頃も枕を共にして、乳母の寝物語を聞きながら、同じ夢を見た。
いつも最初に眠るのはエクレールで、フィーリアは物語が終わっても次をねだり中々寝ようとはしなかった。
今も昔と同じような揃いの寝間着を着て、帳の内で秘密の話をする。
それでも最後まで昔と同じというわけにはいかない。
侍女の役目は主の寝所を守るのであって、甘い夢を共有するのではない。

「さあ、姫様。もうお休みください。今日一日楽しい思い出をありがとうございます。
でも、やっぱりお世話されるよりもお世話する方が似合っていますわ」

ベッドから半身を起こす。すぐ隣からフィーリアの手が伸びた。

「駄目よ。エクレール。一緒に寝るって最初に言ったじゃない」

「姫様……。いけませんわ。お聞き分け下さい」

「大丈夫よ。オベルジーヌは今日は遠慮してくれるって言ってたもの。
誰も来ないの。私たち二人だけよ。エクレール、お願い」

一瞬躊躇った隙をつかれ、エクレールはぎゅうと抱きしめられる。
捕まえた、と楽しげに囁く声に身震いし、諸共にベッドへ沈んだ。

「エクレール、大好き。今度はずっと一緒よ」

だから、安心してとフィーリアは囁く。あやすような口調にエクレールが抑えていたものが決壊する。
子守唄のようにエクレールの心の柔らかい部分を撫でた。

「姫様…!」

エクレールは何も考えずに抱きしめ返す。うわ言の様に姫様、姫様と繰り返した。
怖かった。歴史の波にただ翻弄されるだけの弱い女でしかないこと、守ることができないことが。
再び会えても、また別離の時が来るのではないかと、新たな不安が押し寄せてくる。
怖いよう姫様。今度は一生会えなくなってしまったらどうしよう。どうすればいいの。
今度こそ死んでしまうかもしれない。生きていられない。

「怯えないで。離れ離れになってしまっても、私たちは必ず出会えるわ。
それがたとえシジェルの野であったとしても、また会えるのだから怖くはないでしょう?」

「先に逝ってしまわれても、待っていて下さいますか…?」

勿論よ、とフィーリアの声。腕の中でエクレールは安堵の息を吐く。
不安が無くなったわけではないけれど、この約束だけで生きていくことができる。

「おやすみなさい。エクレール。また明日からお願いね」

おやすみなさい、姫様。



戻る


inserted by FC2 system