HEAVEN
侍従を呼びつけた時、喉に違和感を覚えた。
風邪を引いたか。ディクトールは自身の体調不良を執務室で自覚した。
王の御前でなくて良かったと内心で安堵しながら、侍従に今日一日の予定を唱えさせる。

相も変わらず気を休める暇さえ無い。
忙しさに慣れ切っていたディクトールはそれを苦に感じることは無かった。
王城の門扉が閉った後でさえも、宰相の執務室には引っ切り無しに人が訪れるのだ。
不調は侍従にも気づかれていない。ならば、とディクトールはこのまま予定を推し進めようとした。
体力は人並みであるが、気力ならば並みの騎士程度に遅れを取るものではないと自負している。
この程度、平静を装うのは容易い。ディクトールは軽く咳ばらいをして、侍従を下がらせる。

誰もいなくなった部屋で、ディクトールは備え付けの姿見に己の姿を映した。
中年を過ぎた男の顔――確かに顔色が悪いと思った。
よく顔を合わせるシルヴェストルは人の顔色を気に掛けるほど、細やかな神経を持った男ではなし、
城にいる騎士や貴族は揃いも揃って宰相の顔を真正面から見ることが出来ない始末。
古き家柄だけが取り柄である騎士どもの威勢が良いのはか弱き民衆のみというわけだ。
内心成り上がりの宰相を絞め殺したくて仕方が無いと云うのに。

まあ、ばれることもあるまい。鏡の中の自身を再度睨めつけて踵を返した。
丁度侍従が時を告げる。既に予定が迫っていた。ディクトールは己の不調を瞬時に頭の隅に追いやった。




「おや、ディクトール。顔色が悪いようだね」

もし許されるならば主君の口を糊か膠で塞いでしまいたかった。
それは午後のことだった。ブエンディアの国境侵犯についてシルヴェストルを交えて報告している時のことだ。
ディクトールは表情を崩さず、さも心当たりがない風を装った。
隣でシルヴェストルが鼻を鳴らした。

「年甲斐も無く、夜を徹して詰めておる所為じゃろう」

常ならば鬱陶しいだけの将軍の言葉も今はありがたかった。
午後になってから、喉の違和感は無視できぬほど大きくなり、今やひりつく痛みと化していた。
ディクトールは平素ならば聞き流す皮肉に乗ってやることにした。

「貴殿はその点心配はいらぬようだな。己の齢を自覚してか、最近は大人しいと評判だ。
まあ、引き際を心得ておる将軍には若い騎士たちも安堵していることだろうよ」

「何を、貴様は!」

まあまあ、と王は二人の間に割って入る。
そのまま話は国境侵犯に戻る。外交文書を読み上げながら、ディクトールは忸怩たる思いだった。
王に見透かされたこと。忘れていた。この主君はそういう男であったことを。
ディクトールは己の迂闊さを呪う。この男だけには弱味を見せたくは無かったのだ。
何が、顔色が悪いようだね、だ。誰の所為だと思っている。ディクトールは声を大にして言いたかった。

それもこれも王が無能だからである、と言い切ってしまうのは簡単だった。
頑是ない童が「あの王様は裸だ」と言い放ってしまえるくらいに簡単なことだった。
取り柄は温厚さと公平さだけ。それで充分だとシルヴェストルなどは言うであろう。
主を支え、その為に力を振るうことこそ騎士の誉れであり、使命であると。

だがディクトールは生まれてこの方、真心からの忠誠心など持ち得たことは無く、
また騎士道精神を美徳と讃えられるほど真っ直ぐな人生を歩んでは来なかった。
主君が力不足であれば舌打ちの一つもしたくなるのがディクトールと云う男である。
そう決して無能なだけではない。ただ力不足であるのだ。だから補佐する人間が必要なのだ。
恐らく不調の原因は過労だ。主君の所為だけでは無いが、その理由の大半を占めていることには違いない。

「仔細は分かった。そなたらに一任する。頼んだぞ」

将軍と宰相は恭しく頭を下げた。王にとっての最良の判断は有能な臣下に委ねることだった。
奢侈に溺れた先代よりは、と諸侯は彼が即位することを受け入れたが、動乱の時代では不安が残った。
これがまだ平和な時であれば、彼は大過なくその御代を終わらせることも出来ただろう。
己に流れる血のみで王になった男。それが多少なりとも忌々しくはあった。
しかし結局の所、ディクトールの栄達は“この男”のお蔭でもあるのだ。
もし王が一言「お前の顔など見たくもない」と言ってしまえば、
ディクトールは領地にすごすごと引き下がらざるを得ない。王とはそうした力を持つ者である。
それは覆すことの出来ない事実であった。

「ああ、ディクトール。少しいいかな?」

踵を返したところで、宰相のみが呼び止められる。
王は柔和な表情を崩さない。その善良さが堪らなく忌々しく思うことがある。
微かに眉根を寄せたディクトールは、軽く咳払いをして主君に向き直った。

「何か、ご不明な点でも?」

「……いや、私の裁可が必要になった時は、居館の方まで来てくれて構わない。
侍従や衛兵にも話を通しておこう」

「――お心遣い痛み入ります。我が君」

それはまるで予言であるかのようだった。
国境侵犯を口実に一戦交え、境界線を定めてしまえばよいと主張する将軍と、
領土を餌に、昨年より難航していた政治犯の引き渡しの交渉を有利に進めようとする宰相の意見がぶつかった。
最終的な判断は王に委ねられることになった。ディクトールは渋々王とその家族の住まう館へ赴いた。



暖かい日差しとゆったりと流れる時間。温室のガラスが煌めいているのが見えた。
ここは変わらないとディクトールは一瞥する。表の政治の舞台からかけ離れた楽園。
間近にある戦争や謀略を安っぽいカーテンで覆い隠した偽りの平和。白々しささえ覚える。
途上、庭園で働く庭師から、侍女や下男、政治の場と違い、老若男女から冷たい視線を受けた。
この者たちは、“宰相が王妃に言い寄った”という根も葉もない噂を信じる者たちだ。

あまりにも下らぬ。

彼らの視線を一蹴し、王の待つ庭園へ向かう。
王はテラスで木製の椅子にもたれかかっていた。その背中は随分と疲れているように思えた。
無理もないと、最近とみに皺が増えてきた壮年の男を哀れむ。
なまじ善良であるだけに器以上の役割に日々心をすり減らしているのだ。
侍従がディクトールの来訪を告げると、王は嫌な顔一つせず振り向いた。
頭を下げた瞬間、ディクトールに目眩が襲う。かろうじて何でもない風を装い用件を告げた。

「お休みのところ恐縮ですが、ご裁可いただきたい案件がございまして――」

「ああ、分かった。すまないがフィーリア、向こうで兄さんと遊んで来てくれないか?」

フィーリア。ディクトールがその名が王女のものであることを認識する前に、
膝の上から幼い娘がぴょこんと飛び降りた。
金の髪に青い瞳。貴族の子女が持つ人形のような出で立ちの娘が大きな瞳がディクトールを映す。
大きな病に罹ることも無く健やかに育っている――王女に関する情報はそれくらいしか伝わってこない。
年に似合わぬ非凡さも窺えず、先行きを不安に思わせるほどの遅滞も見えないのだという。
つまりは平凡な娘であるということ。結構なことだとディクトールは思っていた。

下手に賢しく育ち、男を手なずける手段を覚えた女など鬱陶しくて敵わぬ。
政治に口を出し始めたら最後、亡国への道をひた走ることとなるだろう。
ディクトールは無礼にならぬ程度に王女を観察する。
何故か王女は父の言い付けとは反対に、この場に留まってディクトールを不思議そうな面持ちで見つめる。
澄んだ空のような瞳を真っ直ぐにこちらへ向けて。皮肉なものだとディクトールは思った。
血煙の戦場で武功を挙げてきた騎士でさえも果たせなかった偉業を、稚い娘が成し遂げるとは――。

「フィーリア?」

王の怪訝な声が響く。ディクトールは戯れに王女の挑戦を受けて立った。
これは敵意か。いや違う。好奇心、物珍しさ、臣下がここまで入って来たのが珍しいのか。
シルヴェストルなどは妻が乳母であった縁で、頻繁に王女の元を訪れているようだが、
こんな頑是ない幼子の機嫌を取って一体何になるのかディクトールには甚だ疑問だった。
王女は、自分の審美眼に曇りが無ければ愛らしい部類に入るだろうとは思う。
しかし、それだけだ。子供どころか妻さえいないディクトールには、
愛らしく無垢な子供も、ただか弱き存在としか映らない。

「フィーリア」

先ほどよりも強い口調で娘の名を呼ぶ。王女がはっとした様子で我に返った。

「ちゃんと聞こえていただろう。さあ行くんだ」

「……はい。ごめんなさいお父様」

王女はスカートの裾をつまみ、淑女の礼をする。顔を上げた拍子に一瞬だけディクトールと目が合った。
特に声を掛けるでもなく、小さな淑女は遊び盛りの子供になって、温室の方に走り去って行ってしまった。

「いつもは素直に言うことを聞いてくれるんだが、どうしたのだろうね。
もしかすると、我が国の宰相殿が珍しかったのかもしれないな」

「子供に好かれる面相ではないのは自覚しております」

王は否定も肯定もせず笑うのみだった。
それからは宰相の持ち込んだ政治的な案件に終始する。
一度双方の意見に耳を傾ける場を設けること。最終的な決定はその後に下す――。
王はディクトールにそう告げた。予想通りの答えだった。
自分の予測が当たったことにさしたる感動は覚えない。事務的に今後の段取りを思い浮かべる。

「ディクトール。今日はもう下がってくれて構わない。
有能な宰相殿に倒れられたら、みすみす敵国を喜ばせてしまうことになってしまう」

「陛下、仰ることがわかりかねますが……」

「これは命令だ。ディクトール。もう休むように。私も政務に戻るとするよ」

不意に植込みの影からひょっこりと子供が顔を出した。
悲しそうに歪められた瞳は王女のもの。すまないね、と王が告げると幼い娘は父親に駆け寄った。
手にはどこから摘んできたのか、数本の花が握られている。赤と黄色の花弁が王女の歩に合せて軽快に揺れていた。
王は目線の高さまでしゃがみ込むと、寂しそうに下を向く娘の頭を撫でた。

「すまないね。フィーリア、楽しい時間はもう終わりだ」

「……はい。お仕事がんばって、お父様」

父の首筋に抱き着いて頬にキスをする。
ディクトールは、愚かなものだと内心で主君を評する。王の不在如何で影響が出るわけでも無い。
不遜な臣下のことなど気に掛けず、素直に庭園で娘と戯れていれば良いものを。
王女は一輪の花を王に差し出す。

「私にくれるのかい?」

「ヒギンスが持って行って良いって」

「ありがとう。フィーリア」

まるでそれが至高の宝であるかのように受け取る。絵に描いたような父娘の姿がそこにあった。
これがシルヴェストルであれば、涙の一つも流していた所であろう。
しかし、今ここにいるのは情の深い将軍ではなく、陰湿で冷酷な宰相だった。
ディクトールはというと、絵に描いたようなあざとい一幕に、溜息の一つも吐きたい気分だった。
あたかも自分を意図的に排したかのような美しい風景には、反発めいたものしか覚えない。
その上、今まで意識の俎上に上ってこなかった不調が、波のように襲い掛かってくる。
最悪な気分だった。心身ともに。忌々しい事であるが主君の命に従う他ない。
ディクトールは咳払いをする。

「それでは陛下、私はこれにて」

「待って!」

それが自分に向けられた言葉だということに、ディクトールは一拍置いて気が付いた。
声の主は幼い王女だった。父の体から離れた娘はディクトールの前に躍り出る。
そして、父親にしたのと同じように一輪の花を差し出した。

「これは、何か……?」

娘は大きな瞳でディクトールを見上げる。恐れも警戒の色も無い。
この時、ディクトールは本気で王女の意図していることがわからなかった。
しばらく二人で先ほどのように見つめ合う。次第に娘の顔が曇って行った。
眉根を寄せ、何やら泣きそうな表情で唇を引き締める。焦ったのはディクトールだった。
何だ、一体この娘は何がしたいのだ。しかし普段幼子と接することの無いディクトールには見当もつかない。
助け舟を出したのは娘の父親であった。

「貰ってやってはくれないか。ディクトール」

「私が、ですか」

「お前に、だ。そうだろう、フィーリア」

娘は勢い良く頷く。ディクトールは跪き、差し出された花を受け取った。
途端、娘の顔が明るくなる。蕩けるような笑顔を浮かべて父親の後ろに隠れてしまった。

「はやく、良くなってね」

父の背中から顔を出して、娘は言った。
ディクトールはようやく娘の意図が理解できた。同時に反応に困る。
微笑ましげに見守る主君がそれに拍車をかけた。

「……お心遣い、感謝します。王女殿下」

結局月並みな返ししか出来なかった。だが、それでも王女の笑みは崩れない。
愛想笑いの一つも浮かべない男ににこにこと笑いかけている。
王妃の笑みを連想させるそれは、冷酷な宰相を思いの外動揺させた。

今だけだ。

ディクトールは己に言い聞かせる。
自分に無垢な笑みを向けるのは、何も知らない子供である故、
あと数年もすれば、他の者と同様に様々な悪感情を向けてくるだろう。
敵意、蔑み、嫉妬、憎悪。そして、おもねりの愛想笑い。
快癒を祈るのではなく、破滅を願うようになるのだ。

王と宰相、それぞれの手の中にある花が風に揺れる。
居た堪れなくなり、ディクトールは逃げるように御前を辞去した。
その後、王女の下賜品はその身を枯らすまで宰相の執務室を彩った云う。




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