王の戦い

王妃が不義を働いている。

そんな噂がディクトールの座る玉座に届いたのは、剣の誓約から半年後のことだった。
いかにも忠義面して耳打ちした男を、ディクトールはいくらかの憐みと蔑みをもって睥睨した。
王の反応が薄いのを見ると、当てが外れた男は焦り、次々といらぬことを捲し立てる。
どこぞで誰が王妃を見たやら、王妃の部屋に見慣れぬ男が入って行くのを見たなど、
全て伝聞であり、肝心の目撃者やはっきりとした日時は最後まで男の口から出ることは無かった。

同じだった。自身が宰相であった頃に流された当時の王妃との噂と寸分違わない。
先王の歓心買おうと、成り上がりの宰相を貶めようと、そんな思惑を持って噂は先王の元に届けられた。
幸い先王は凡庸ではあったが心根は善良であった。
己が取り立て、常に己に尽くしてくれる野心家で不遜な宰相を、驚くべきことに心から信じていたのだ。
結果的に、注進者は遠ざけられ王宮には噂だけが残った。

今、目の前で諂う男は、かつて同じ口で何と言っていたか。
この男が忘れようともディクトールはよく覚えている。成り上がりの宰相を貶める言葉には事欠かなかった男だ。
まさか王になるとは思っても見なかっただろう。今頃になって掌を返しに来たか。
卑しき性根に心の底から軽蔑する。ディクトールは煩わしげに男の言葉を遮り、
時間を無駄にしたことを悔いつつ下がらせた。

若き頃の惨めさは既に遠い。
かつて己を侮った者たちの生殺与奪の権を握りながらも心は存外に平静だった。
いずれ目にもの見せてくれる、とあれほど恨みを積もらせていたというのに。
人と云う生き物は何と些末なことに囚われてしまうのだろうとさえ思う。
ディクトールは己の心境の変化に感慨深いものを覚えた。

フィーリアを娶り早半年。
最も尊き血筋の王女が父親ほども歳の離れた男の、しかも父の臣下であった男の妻となる。
そのような噂も流れて当然かと思えた。世間もさもありなんと思っているからこそ人口に膾炙するのだ。
それほどまでに歪な真似をした。身分も歳の差も経緯も、何もかもが出鱈目だった。
しかしディクトールに他の道は選べなかった。
たとえ後世の歴史家から如何ほどに謗られようとも、フィーリアを娶ったことを後悔していない。

王妃の不義の件はそれで終わった。ディクトールは休憩を切り上げ、早々に謁見を再開させる
即位より以前にもまして多忙となった今、不確かな噂に関わっていられる余裕は無かった。
後日、別の口から語られるまでは気にも止めていなかった。





王の執務室はかつて先王と現王妃と共に歴代の王が使用し、その為に作られたものであった。
現在の主は王家どころか尊いとされる血一滴すら流れていない男でありながら、
存外執務室はディクトールを拒まず、そこかしこにある王家の痕跡も彼を苛立たせるものではなかった。

「陛下、エクレール様がおいでですが……」

暖かな日が降り注ぐ午後、短い休憩時間の合間に客人は訪れた。
通せと侍従に伝えると、ほどなくして賑やかすぎる客人が姿を現した。
かつて王女の侍女であった女は相も変わらず騒々しい。試練の時と何一つ変わっていない。
変わったのは仕える主の位だけだ。それに伴って彼女の肩書も王妃の侍女となった。

「お久しぶりでございます。陛下」

エクレールはまず突然の来訪の非礼を丁寧に詫びた。
そして、次の瞬間には眉を吊り上げてやかましく声を上げた。件の噂について抗議に来たのだ。
うら若き王妃に何たる侮辱、夫であるあなたがそれを放置してどうなさるおつもりか、と。
ディクトールは侍女の訴えを黙して聞いた。
経験上この侍女が言いたいことを言えば大人しくなると知っていたからだ。

「陛下は王妃様の噂をどのようにお考えですの?」

案の定エクレールは怒りを吐き出し尽くすと、急に不安げな表情で小さくなる。
ディクトールは小さく溜息を吐いた。

「信じてはおらぬ。欠片も」

ディクトールは言い切った。
先王と王妃の血をそのまま引いたフィーリアは、能力も彼らを写し取ったように凡庸であったが、
心根もやはそのままり写し取ったかのように善良でお人好しであった。
それよりも、とディクトールは侍女に問いかける。

「王妃の耳には入っているのか?」

「おそらくご存知でしょう」

歯切れが悪い。エクレールが王妃の口から噂の件を一言も聞いていない証左だ。
ディクトールは先ほどよりも大きめの溜息を吐く。

「それを私にもお前にも言わぬのが王妃の甘さよ」

「陛下にご心配をおかけされたくないからですわ。
本当は不安でしょうに…。万が一にでも陛下が信じてしまわれたらと…。
愛するお方にご自分の愛情を疑われることがどれほど辛いことか……」

「私は信じておらぬと先に申したではないか」

「そのような噂があるということがどういうことか。陛下もご存じでしょう」

「わかっている。だが人の口に戸は立てられぬ。
当事者が狼狽えれば真実であると裏付けることになってしまうのだ」

「なら、せめて王妃様にお会い下さいませ。
お二人が仲睦まじい姿をお見せすれば、あんな噂すぐに収まりますわ」

「わかっていよう。今は国内の安定が急務だ。夫婦の時間を持つ暇は無い。
それは王妃も理解している」

二人の時間が持てないのは何も王のみが多忙だからという理由ではない。
フィーリアもまた王妃として忙しない日々を送っている。
騎士や高官の妻女との社交的な集い、また多忙な王に代わり視察や騎士への慰労などすべきことは山積みだった。
ディクトールの正統性が血筋によるものではないということが火種として燻っている。
だからこそ王族の血を引くフィーリアが表に出る必要があった。騎士王の裔は彼の者を王と認める、と。
王の矛のような先鋭さを包み込む役目を王妃が担っていた。

「もし、あれの口から今の噂の話が出たら伝えておいてくれ。私は一片も信じていないと」

「本当に、騎士王に誓えますか?」

「それで王妃が安心できるのならば、いくらでも誓ってやろう」

わかりました、とエクレールは首肯する。
目だけは不満を訴えているがディクトールには他に言い様が無かった。
侍女は来た時と同様丁寧に非礼を詫びて執務室を後にした。
執務室には一人ディクトールだけが残される。嵐が去った後のように静かだった。
不意に侍女の言葉が蘇る。

本当に信じられるのか。

当たり前だ、と声に向かって言い捨てる。
あの先王の娘が、人を疑うことを知らぬ娘が、夫が離れていることを良いことに男を引きずり込むものか。
そうとも。敵にすら涙する愚かな娘が自分を裏切るはずがない。そこまで考えてディクトールは頭を振った。
フィーリアの潔白を確信しているにも関わらず、何故かくも必死なのか。
不毛な思考に捉われる前に、ディクトールは侍従を呼びつけ執務を再開させる。
ディクトールは政務に没頭することで噂の件を忘れようとした。




しかしディクトールは己が言を翻した。件の噂を調べさせたのだ。
結果は何て事の無い取るに足らない噂だった。策謀の気配も無い。
年頃の娘が国の為に父親ほど年の離れた男に嫁がねばらならないことを哀れみ、
相応の相手との恋を物語的な願望が噂を形作ったと言えなくもない。
だが、それだけでは火の無いところに煙は立たたない。
実際に幾度か若い騎士が王妃と睦まじく話している姿が目撃されていた。
それがかつての親衛騎士や幼馴染である己の甥であったりもした。

王妃ならば身を慎めと咎めるつもりは毛頭ない。むしろありがたいと思っている。
著名な騎士と親交を図ることも統治者の務め。有能な人材を留めておくのに必要なことだ。
敵を作りやすい己よりも、柔和な王妃の方が受け入れられやすいこともある。
初めから、二人の間で決めたことだった。王としての実務をこなすのがディクトール。
臣下との間の緩衝剤となるのがフィーリア。二人でこの国を治めていこう、と誓ったのだ。

フィーリアはよく務めを果たしてくれている。
影に日向にと不満一つ洩らさず支えてくれていた。
其れに何の不満があろうか。感謝こそすれ真心を疑うなど。そこまで自分は堕ちていない。
忘れるべきだった。忘れようと努めた。しかし何かがディクトールの腹の底に積もっていく。
執務をしている間も、謁見の最中も、それは降り注ぐ。

ディクトールはとうとう観念した。即位して初めての休みを取った。
僅か一日足らずの休み。ディクトールは己が妻である王妃の元へ足を運んだ。
王妃は王が出向くと聞くや否や、その日の全ての予定を取り止めにしたという。
ディクトールが王妃の待つ離宮に着いた時には、最低限の護衛以外は人払いがされ、
あのやかましい侍女でさえも席を外していた。
夫婦水入らずとなった部屋で、フィーリアは心から嬉しそうに夫を迎えた。

「いかがされたの? 仕事人間のあなたが急に休みを取るだなんて」

「そなたの顔が見たくなったのでな――……なんだ、何故笑う」

「いいえ。あなたがそんなことを言ってくれるだなんて、何だかとても嬉しくて……」

ディクトールは言葉に詰まった。政敵に返す皮肉はいくらでも浮かんで来るというのに、
妻に対して気の利いた言葉が何一つ思い浮かばない。照れ隠しに妻の淹れた茶を飲む。

「無理は、していないか」

年若い王妃は笑みを絶やすことなく答える。

「ええ、この通り。あなたこそ働き詰めでしょう。しっかり休みを取ってくださいね」

「だからこうして休んでいるではないか」

「あら、眉間に深い皺が」

ディクトールは眉間の皺をさらに深くさせる。
フィーリアは苦虫を噛み潰したような表情の夫を見て、市井の小娘のように笑う。
この娘には敵わぬ。ディクトールは早々に白旗を揚げ、肩の力を抜いた。
そうすれば自然と笑みも浮かんでくるというもの。ぎこちなく微笑み、日頃の労を労った。
それからしばらく夫婦の時間を楽しむ。互いが不在だった時間の出来事を語り合った。
しかしディクトールは妻の話に耳を傾けながらも、頭の隅では別のことを考えていた。

部屋に男の気配は無い。

何と小さき男かと内心で自嘲する。
信じていない筈だった。今もフィーリアが裏切るところなど想像できない。
人とは我儘だ。結婚を申し込んだ時は傍にいてくれさえすればよいと思っていた。
触れることを許されずとも、ましてや愛されなくとも、この娘が妻となってくれるだけで満足だった。
娘の優しさが僅かにでも自分に向けられさえいれば、全てのことに目を瞑るつもりであった。
たとえ他の男を愛し、密かに逢瀬を重ねられることになろうとも仕方の無いことだと思った。
しかし蓋を開けてみれば何もかもが彼の予想に反していた。

「私もあなたを愛しています。あなたの傍にいることが私の幸いです」

望んでいなかったわけではない。だが決して手の届かない場所にあると思っていた。
それが己が手の中に在る。知ってしまった甘い果実の味。最早手放すことなど出来るものか。
ディクトールはようやく腹の底に積もっていたものの正体に気づく。
これは不安だ。敢えて見ないようにしていた不安。
手にしてしまえば失うことを恐れる。喪失の恐怖は彼女だけではなく、その笑顔も。

若い娘を縛り付けて良いのか。他の年の近い男と幸せな結婚をすべきではないのか。
十六の娘が思い描く幸せな結婚生活とはかけ離れているのではないか。
この歳まで愛することを知らなかった男が今さら誰かに愛情を注げるのか。
本当に、フィーリアは幸せなのか。

「――どうかなさったの?」

急に黙ってしまった夫にフィーリアは怪訝な表情をする。

「いや何でもない。少し、目眩がしただけだ」

「ごめんなさい。私ばかりが喋ってしまって。少しお休みになって。今、寝室の用意をさせますから」

「大丈夫だ。年甲斐もなく無理はしておらぬよ。倒れてしまえば元も子もない。
今はこうして、そなたと話をしていたい。そなたが笑っているところを見ていたいのだ」

フィーリアははにかんだ風情で微笑む。たとえこの笑みが嘘だとしても時間を戻すことなど出来ない。
彼女との結婚を選ぶということはそういうことだ。残りの生を不安と戦い続けるということ。
思い返せば、己が生の何と闘争に満ちたものよ。
若かりし頃は卑しき生まれと家柄に、先王に見出されて後は政敵と古き権威に。
そして王になればなったで、国と人と卑小なる我が身との対決。
安らぎなど果たしてあったものか。なればこそ灯火を望む。それがたとえ不安と共にあろうとも。

「フィーリア」

愛されずとも自分は愛している。拒まれても決して離さない。憎まれても愛し続ける。
かつてフィーリアに捧げた言葉。歪な告白は戦いの狼煙でもあった。

「陛下」

夫を呼ぶのに何だそれはとぼやけば妻は安らいだ表情で夫の名を呼んだ。
王の戦いは続く。




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