悪霊の悲しみ


どんよりとした曇り空の広がる冬がすぐそこまでやって来ていたある日のこと、
イシュメールの迷惑な亡霊として人々から認知されているトライゾンは庭で日光浴をしていた。
ともすれば体越しに向こう側の景色が見えてしまう亡霊が日光浴など必要なのかという疑問は、
彼を見た多くの使用人たちが共通して抱いた感想だった。
庭の隅にある剣を掲げる騎士王像の頭部に腰掛け、何をするでもなく太陽を拝む姿は、
さてはとうとう昇天する気になったのか、と暇な使用人たちをざわめかせたのである。

しかし当のトライゾンに騎士王の御許へ行く気は欠片も無い。
こうして徒に空を仰いでいたのも、城内に身の置き所が無くなった所為だった。
決して日頃の悪戯を反省したわけでも、王女の慈悲深さが彼に改悛を促したわけでも無い。
既に亡霊となって二百年。己の身を省みるような殊勝な心をどこぞへと置き忘れてしまって久しい。
トライゾンが珍しく大人しく過ごしていることも、ひとえに己自身の為であった。
今までもこれからも彼が王家の為に働くことは無い。日没を眺めながらトライゾンは己が身を呪う。
決して会いたくない人物が客人として城を訪れている。こうして身を隠していたのも全てはその為だった。

西日が庭に差し込む。ガラスで覆われた温室が刺すような光を放っていた。
亡霊になってしまうと時間の概念が薄くなり、つい程度と云うのも忘れてしまう。
トライゾンは一日が終わってしまうことにようやっと気が付いた。
像の上に立ち、背を伸ばし首を回すという甚だ意図が見えない行動をして、背後の城を顧みた。
さすがにもう帰っただろう。そう思いかけた瞬間、淡い期待は無残にも打ち砕かれた。

「変わらない姿で嬉しいぞ」

ぎくりとした。もしトライゾンに実体があれば冷や汗の一つでも掻いていた所であろう。
人の心の奥底に隠した柔らかい部分を撫でるような男の声は二百年前と変わらない。
もう何百年も前から変化することを止めてしまった男だ。
トライゾンは声の方に振り返る。果たしてそこには変わらぬ美貌の吸血鬼が、何もない空間に立っていたのだった。
夕陽を背にして愉快気に顔を歪ませる様は鮮血の暴君の呼び名に相応しく、鳥肌が立ちそうなほど妖艶だった。
トライゾンは恐怖よりも二百年前と何一つ変わっていない容貌に感慨深いものを感じた。
男――黒貴族は口を開く。

「二百年ぶりか。長いこと彷徨っているものだな。フョードル」

「貴様なぞ二度と会いたくは無かったわ」

性懲りもなく蘇りおって。トライゾンは吐き捨てる。
こともあろうに王女の客人は二百年前の父祖の宿敵であるはずの黒貴族だった。
誰であろうが来る者を拒まない性質は遠い先祖である騎士王カレドウルフによく似ており、
あの忌々しい若者の面影を王女に見出すたび、トライゾンは苦い気分に襲われた。
それは奇しくも相反する存在である黒貴族に抱くものと同種の感情であり、
ことトライゾンにとっては闇にも光にも身を置くことも出来ぬ理由の一つでもあった。

「つれないことを言うな。私は人間の中では二番目にお前が好きだったよ」

「喋るな! お前が一言喋るごとに鳥肌が立つわ!
私は闇の者の中でお前が一番に嫌いだった! 自ら手を動かすことなく高みから私たちを見下ろしおって!
私は最早貴様の人形などではない! とっとと貴様の陰気な城に去るがいい!」

トライゾンが城の隠し部屋で長きに渡り時を数えていた間、知れたのはこの男と王家と呼ばれる連中が
大嫌いだということだった。しかし悪霊が害為せる対象と云うのは存外限られている。
たかだか二百年ほどしか怨念を熟成していないトライゾンが祟ることができるのは、
この狭い王城に限定されており、また祟る内容も精々掃除の手間を増やすなどといった
ささやかなものばかりだった。

もう何百年もすれば闇の王と称されるこの男の身に災いを振りかけることができるのだろうか。
しかし、その時まで自身が昇天せずにいられるかの保証もなく、また気力も無いこともよく知れていた。
所詮は闇に染まりきることができぬ半端者である。それを幸いに思うには時間が経ち過ぎていた。
王女の不手際で封印から解かれた後も、衰えたカレドウルフの子孫たちを再度呪う気にはなれず、
一体この世で今さら何をなせばよいのかと途方に暮れたのであった。

「お前のことはよく知っているつもりだ。
お前の憎まれ口は本心の裏返しでしかない。お前は未だにこの私を憎み切れてはいないのだよ」

「気色の悪いことを……。お前のそうした物言いには反吐が出る」

黒貴族の笑みが昔を懐かしむものに変わる。
この男ほど美しい男はかつての仲間であったアンリ以外に思いつかない。
その上長命である故か人の本心を面白いほどに言い当て、人を操る術に長けている。
かく云うトライゾンも操られた一人だった。
世の全てに失望し、虚しさに襲われた時この男の甘言に乗ってしまった。
ただ戦いを面白くするための駒を欲していただけだと、心の奥では見抜いていたにも関わらずだ。
報復で家族を殺されて、殺し殺されるしかない醜い二つの種族に疑問を抱き、
己のしてきたことに不信感を抱いたことを言い当てられ、あえなく陥落した。
この男の言葉は甘く優しかった。それは幼子が犬猫を愛でるのにも似ていた。

「否定はせぬか。嘘の付けぬ男だ。やはり私はお前が好きだ」

「好きかどうかはわからぬ。ただ今も昔も迷惑なヤツだと思うだけだ。
あの王女とお友達ごっこをして楽しいか。あれを誑かして何をするつもりかは知らぬが、
いい加減にお前の暇潰しに付き合わされる者の身になってみたらどうだ」

この男の言う通りだった。存外に憎悪を持続させることは難しいものであった。
目覚めたばかりの頃は、騎士王にも黒貴族にも山のように言いたいことがあった。
しかし、いざ本人を目の前にすると、積もり積もった鬱積した感情は淡雪の如く溶けてしまい、
代わりに思い出すのはありし日の愚かで純粋だった己のことばかりだった。
今さら後悔することなど一つとして無い。ただ一人残された悪霊は呪うことができなければ、
昔を思い出すことくらいしかすることが無かった。

「心外だな。私はフィーリアの誠実なる友だ。
しかし、さすがあやつの子孫と云うところか。私を恐れぬ所はよく似ている」

この男も悪霊と似たようなもので、災いを齎す他には、昔日の輝きに心を慰めることしかできない。
しかし過去の思い出に浸るには、この男は長く生き過ぎていた。生の意味とは。
誰もが考え得るその疑問を男は忘れ、思い出の持つ意味すらも彼方に置き忘れてしまっていた。
それでも男のカレドウルフを見つめる瞳には特別な物が宿っていた。
あたかも闇の中で光る星のように。この男にとってそれこそが自身を測る標となっていたのだ。

「あのような小娘。カレドウルフとは似ても似つかぬ」

「お前は素直すぎるな。それほどあやつを慕っているならば早く会いに行くがよい。
貴様の子孫が闇の手に堕ちようとしていると訴えれば、加護の一つでも与えてくれるやもしれぬぞ」

嫌な男だと思った。喉を振るわせて笑う男は心の底から愉快と云った風だ。
この男が何を考えて王女にちょっかいを出しているかは知る由もなく、また興味も無い。
だが、たとえこの男が己の与え得る全てを王女に差し出したとしても、
王女が闇の王に膝を折ることが無いということは知れた。だからこそ惹かれているのではないか。
トライゾンは一抹の不安と共に思う。

「あやつは己の子孫に甘い男ではあるまい。
それに王女はな、そう易々とお前のものにはならぬ。あやつと似ているのだろう?
同じことを繰り返すのは虚しくは無いか」

男の薄笑いが消えた。
トライゾンは自身が男の最も触れられたくない部分に触れたことを感付く。
死を恐れないのは亡霊の特権である。そのお蔭で生者のそれよりも遥かに自由なのは皮肉としか言い様がない。
人は生きている限りありとあらゆるものに縛られる。この男でさえも、その業からは逃れられない。
強くなればなるほど人は自由に振る舞えると錯覚するが、縛る鎖が太くなるばかりで、
心のまま生きることなど夢のまた夢であることに気が付かないのだ。

「フョードルよ。少しばかり長く現世に居ると悟ったような気分になるのは人間の悪い癖だ。
私は同じ轍を踏むつもりはない。私に敗北は二度とないのだよ」

長く生きただけで賢者になれぬのは目の前の男が証明している。
トライゾンもまた亡霊として長く存在している。
されど、己を知るには充分すぎる時間であり、己を忘れるには短すぎる年月であった。
外の世界に出られたのは存外幸運であったやもしれぬ。
この男は哀れであった。彼にとって二百年前の出来事はつい昨日のことなのだ。
また長き生の中で最も輝いていた時間でもあった。
果ての無い生の中で、それと同等の輝きを見つけるのは夜空から無数にある星を一つ掬うのに等しい。
追いかけるなと言う方が酷な話だ。

「この時代の人間も強い。やってみるがよい、ヘルゼーエン」

何を言ってもこの男には届くまい。既にカレドウルフがやったことをなぞるつもりはない。
所詮この世に生きる誰しもが迷子なのだ。死者はこれほどまでに自由。
早くこちらに来いと誘うつもりはないが、今も息づいている己や友の子孫、
そして何一つ変わることの無い宿敵、その全てに祈りの一つでもくれてやりたくなった。




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