愛の牢獄


自分の贈った香水の匂いが漂っている。それだけで何物にも替え難い充足感に満たされる。
歴代のベルジュロネット公が愛人に住まわせていた部屋に王女は寝起きしている。
贈ったドレスは見立て通りよく似合い、髪飾りや頬紅、口紅も全て彼女の為に選び抜いたものだ。
文化や栄華の香りも無い古臭い城から遠ざけ、己が手によって飾り立てるのは、
政治と云う無粋な痕跡を美しい柔肌から消し去る行為にも似ていた。
宝石が宝石箱へ収まるように、美しいものは美しい場所にあらねばならない。
あるべき場所にあるべき人がいる。この世に数多存在する正義の中でも最も真理に近いと思っていた。

オベルジーヌは窓際の長椅子に寝そべる王女を覗き込む。
王女は微睡みの中にいた。優雅な午睡はご婦人に与えられた特権だ。
起こすことの無いよう音を立てず傍らに腰掛ける。
昨夜も遅くまで愛し合っていた所為か、今朝がたから酷く疲れていた様子だった。
気だるげな様子もまた堪らず美しく、限界まで責め苛みたいと暗い誘惑にかられたものだ。

王女の耳朶に触れて、指先で弄ぶ。愛らしい人形は悩ましげな表情で身じろぎする。
夢の中でも愛されているのだろうか。むむむ、とオベルジーヌは苦い表情をする。
彼女を愛しているのはこのオベルジーヌであろうか。
可愛いエヴァならばまあ許そう。しかし、他の取るに足らない男であるならば――。
眉間に皺を寄せる。それは面白くない想像だった。

王女は美しく愛らしい人形であるが、気が多く奔放なご婦人だった。
オベルジーヌの傍らで美しく佇むだけでは飽き足らず、移り気な蝶のように
蜜を求めてどこぞへと飛んで行ってしまう。
この館を出て何処かへ飛び去ってしまうものならば、それこそケースの中に収め、
永遠にオベルジーヌだけが愛でられるようにしていただろう。
彼女を老いという恐怖から解放してあげるのだから喜ばれるに違いないとさえ思っていた。

しかし、今のところ彼女が飛んで行く様子は無い。それもそのはず。外には王女を捕えんとする
邪悪な蜘蛛が巣を張り巡らして、今か今かと待ち構えているのだ。
あのような醜悪な者どもに王女を触れさせるのはそれだけでこの世の罪悪だ。
そして、オベルジーヌは王女が己を愛していると微塵も疑っていない。
閨で何度も尋ね、何度も同じ答えが返ってきたのだ。愛しているわ、可愛いオベルジーヌ、と。
遠い昔に亡くなった母を彷彿させる愛撫。それで確信した。
この愛らしいお人形さんは私を愛しているのだ、と。オベルジーヌは歓喜に包まれた。

だから本当に人形にさせる必要は無い。愛しているのだから笑ったり喋ったりできる方が良い。
助けを求め哀願するのでなく愛を囁いてくれる人形は彼女の他にいない。
他の人形はもういらない。全て捨ててしまった。彼女さえ愛を囁いてくれればいい。
オベルジーヌは王女の瑞々しい頬に顔を寄せる。
そして、口づけの代わりに先ほどまで弄んでいた耳朶に歯を立てた。
途端、穏やかに上下していた胸がバネ仕掛けの玩具のように跳ね上がる。

「おはよう。私のお人形さん」

しきりに目を瞬かせ、王女は傍らの男を見つめる。
オベルジーヌは状況が呑み込めていない王女を余所に、今度は本当に頬へ唇を落とした。
王女はようやく目の前の青年が寝ている自分に悪戯を仕掛けたのだと理解する。
目を細め柔らかな笑みを浮かべると、半身を起こしてオベルジーヌに口づけを返す。

「仕方が無い人。もう少し優しく起こして欲しかったわ」

「私をさしおいて夢の中にいるつもりだったのかい? ああ、君は何て酷い人なんだ。
私が市井の埃に塗れて、父祖の名誉を守るべく、領主としての務めを懸命に果たしている最中も、
君は他の男の腕に収まる夢を見ていたんだね。残酷だ。酷い話だ」

ららら、と歌劇の中の恋に破れた男の如く悲嘆を歌にする。
自身も長椅子に乗り上げ、二本の腕を王女の顔の両隣に置く。
当然、体を起こしていられる間もなく王女は再び長椅子に沈んだ。
見下ろすのは頑健な肉体を持つ騎士の男である。今は悲しげに眉根を寄せているが、
いつ気が変わって害意を向けるかわかったものではない男だった。
しかし王女に微塵も恐れた様子は無く、物憂げな男に小首をかしげて見せるばかりだった。

それが何に火を付けたのか、オベルジーヌは急に満ち足りた顔をして唇を奪った。
執拗に舌を追い回し、気の向くままねぶる。
常ならば、そうしているうちに昂ぶりが止まらなくなり、昼夜を問わず没頭することになる。
しかし、今日に限って、オベルジーヌの手はいつまで経ってもドレスに触れられなかった。
唇が離れ、特に何をするでもなく自分の下にいる王女を見下ろす。

「どうかしたのかしら?」

「とても美しいよ。食べてしまいたいくらいさ」

言うや否や、オベルジーヌはリボンと精緻なレースが編まれた胸元に顔を埋める。
その香しさに酔いながら、布越しに頬を撫でる柔らかさを堪能した。
王女は楽しげに微笑むとそっと頭を抱く。いっそ官能的とさえ思えるほどの戦慄が背筋を走る。
かのオクタヴィアでさえも、かほどに蕩けるような抱擁を騎士王に施しはしなかっただろう。

「ねえ、フィーリア。君は僕のことを愛しているんだよね」

「ええ勿論よ。愛しているわ。オベルジーヌ」

愛している。何と甘美な響きだろう。
僕の愛しいお人形さん。僕を愛している。愛している、と。
ああ、とオベルジーヌは感極まった風に掠れた声を洩らす。

「大きな子供。とっても可愛い」

「君にかかればどんな男も赤子同然だろうに。そうやって君は世の男たちの上に君臨するんだね。
ねえ、君は今でも王冠が欲しいと思うかい?」

王女はきょとんとした風情でオベルジーヌを見る。
そうした仕草にはまだまだあどけなさを色濃く残す。思春期を迎えたばかりの少女のようだった。
表面は青々とした未熟な果実だが内実はその逆だ。蕩けてしまいそうな蜜が詰まっている。

「最近、私たちの周りが騒々しいんだ。不愉快で美しくない連中が私を焚き付けようとして来る。
別に私はあの俗物が王だろうと一向に構わない。こうして好きにさせて貰えるのだからね。
しかし、君はどう思っているのか。君は君の元に玉座を取り戻したいかい?」

王女は深刻に考える風でもなく首を傾げ、すぐさま「いいえ」と答えた。
それでこそフィーリア。オベルジーヌは嬉しくなる。
俗人どもの俗な考えなど、意に介さず一足で飛び越えてしまう。
そうとも玉座など必要無い。あんな玩具が無くとも美しいものは美しいのだから。

「ディクトールがいいと皆が決めたことよ。良い王様だと私は思うわ」

「君は彼を気に入っているようだね」

「ええ。好きよ」

あの俗が服を着て歩いているような男をか。途端、面白くない気分になる。
王女は、表情の険しくなったオベルジーヌをあやすかのように髪を梳く。
大丈夫よ、とオベルジーヌは優しげな声を聞く。

「ディクトールは私のことを嫌っているから。たぶん、二度と会いたくないでしょうね」

オベルジーヌは身体を起して王女に口付けする。
しばらくして顔を離すと、険しい表情のまま捲し立てた。

「君はつまらない男のことなど気にしなくていい。
ずっと私のことを考えて、私のことを愛していればいいんだ。
ここには何でもある。屋敷から出してはあげられないけれど、君が欲しいものは何だって揃えてあげる。
気は進まないけれど、煩いエクレールもいずれはここへ招いてあげよう。
少しばかりの火遊びも大目に見るさ。君は私を一番に愛して、私の元に必ず戻って来るのだからね」

「ええ、あなたの傍にいるわ。
もし私が王になるとしたら、他に王になる人が誰もいなくなった時よ。
あら、でも、そうなったら王になるのはあなたかもしれないわね」

他の者ならば、玉座を奪えと使嗾しているように聞こえだろう。
エヴァンジル辺りならば顔を青くさせていたに違いない。
可愛らしい従兄弟を思い出し、ふっと表情を緩ませる。

「そうだね。君が王妃となるのならば考えてもいい」

王女の身柄を預かるに当たり、玉座に座る男から二つばかり厳命されたことがある。
一つは王女の身の安全。決して命は奪うな、傷一つ付けるなと耳が痛くなるほど言い聞かされた。
もう一つは婚姻。誰一人として王女を妻とすることは許されない、と。
それが守られるならばあとは好きにすればよいと王は言った。
しかし――とオベルジーヌはふと考える。

「そうか。私が王になれば、君と生涯の契りを結べるんだね」

美しい王女の身に傷一つ付けられていないのは、あの面白味のない男にっとっては誤算だっただろう。
あの男は口実を欲していた。大領主や有力な騎士の家系から力を削ぐ為の。
権力争いに敗れたとて王女は尊き騎士王の裔。その身が害されたとなればこれほどの口実は無い。
ディクトールにとって王女は餌でしかなった。それは今でも変わらない。
ベルジュロネット領主が玉座に野心ありと知るものならば、嬉々として所領を削りに来るだろう。
フィーリアの夫の座にも惹かれるが、みすみすあの男の思惑に乗ってやるのも癪だった。

「まあ、もう少しの辛抱か。宰相の命は私たちよりも早いのだからね」

それまで私たちは楽しんでいればいい。
オベルジーヌは立ち上がるや否や王女を抱き上げ、寝台へ向かった。



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