夜明け前



もどかしくてならない。互いを隔てる衣服、肉体さえも。

未明。職人の徒弟たちが兄貴分にたたき起こされて、仕事場の掃除を始める頃合い。
路上の酔漢は未だ夢の淵に居り、農夫の飼う鶏たちが喧しく鳴き声を上げ始める。
街の大多数の人間はまだ眠りについている。貴族の朝は平民のそれよりも少しばかり遅い。

城壁を出れば、朝露に濡れた草原が広がる。
草木の合間を縫って耕された畑にはぽつぽつと人の影が見える。
夜更かしの好きなフクロウがほぅと鳴く。農夫たちは日が昇る前に起き出してくる。
そうして日が昇り切るまで朝の勤めを終わらせようと無心に鍬を動かす。
その頃になって来ると、農村の家々のかまどから煙が上がってくる。
農夫たちが朝食をとりはじめてから、ようやく城で夜明けを知らせる鐘が鳴るのだ。

ここはロザーンジュ。騎士の国ターブルロンドの都。
先頃ようやく唯一の継承権を持つ王女が即位し、それに伴う混乱が一息ついたところだ。
その郊外に一台の馬車が止まる。装飾は控えめだが一目で貴人のそれだとわかる。
周囲に人影は無く、馭者も朝露をしのぐ外套に身を包ませ顔を伏せている。

馬の一頭が小さく嘶いた。何故こうして止まったままなのか。
まるで無邪気に訝しがっているようだ。馬車の窓には紗が下りている。
透き通るような青地の布だ。勘の鋭い者ならば、馬車に乗る貴人の正体に見当がついたかもしれない。
しかし、まだ夜も明けきっていない時分の郊外。昼ならば子供がじゃれ合いでもしているが、
今は目覚めたばかりの小鳥くらいしか馬車を見守るものはいない。
唯一の人である馭者は敢えて耳目を塞いでいる。

余人には近付くことさえかなわない。

窓に下りる青の紗が微かに上がる。白い指が曇ったガラス窓に触れた。
指はすぐに引っ込む。もう一つの手がやんわりと押し返したのだ。
影は二つ。紛れもなく男と女のもの。

「暗闇は恐ろしいかい?」

フィーリアは首を横に振る。夜明けの微かな光も遮り、馬車の中は真夜中のように暗い。
あなたの顔がよく見えないのと訴えると、もう一つの影は微かに肩を震わせる。
それが笑ったのだとフィーリアが気づく頃には、もう口づけられていた。
もう何度目だろうか。フィーリアは数えることを諦めてしまった。
もう一つの影――ディトリッシュは端から数えていない。幾度重ねても足りないことは分かっていたからだ。

唇が離れる。フィーリアは横抱きにされたまま首筋に腕を回す。
胸元ははだけ、ドレスの裾は大きくめくれあがってしまっている。
露わになった白い肌には点々と赤い跡が浮かぶ。しかしそれにフィーリアが気が付くことは無い。
互いの顔さえ近づかなければ見えない薄闇。ただ夜目の利くディトリッシュのみが己が所業を把握していた。

夫と妻の間柄に制限などあろうものか。
ディトリッシュは笑みの中にそのような意味を含ませる。
妻の方は知る由もない。上気した頬を撫でられて心地よさ気に瞳を閉じている。
玉座で見るよりもずっと幼く見えるのは安らいでいるからだと知っていた。
赤子のように、魂すらも預け、その胸の中で眠る。それがどれほど心を癒すものか身を持って知っていた。
日々の重責や疲労。まだ十六になったばかりの娘が背負うには重すぎる。

もし妻が望むのならば、ディトリッシュは世界のどこへでも連れて逃げようとさえ思っていた。
現金なものだと自嘲する。まだ己がただの騎士であった頃は彼女を王にと望んでいたというのに。
今はフィーリアが王の責務の重さに苦悩するたび、彼女が王にならざるを得なかった運命を呪う。
そっと肩に手を置いた。こんなに小さな肩に一国の行く末が掛かっているとは。
世とは何と無情なものか。しかし彼女をこの世に産み落としてくれたのもまた世。
人も闇も押し並べて気まぐれな運命の女神の掌で弄ばれるだけの存在かもしれない。

「夜明けまで少し時間がある。眠るといい」

互いに運命を嘆く時間は当に過ぎ去った。今はただ時間が惜しい。
夜通し囁き合い愛し合っていた。決して快適とは言えぬ堅い座席の上で転がり、戯れ、肌を重ねていた。
車内には熱が籠り、閉じ込められた熱気が窓を曇らせる。
何を思ったのか、フィーリアはカーテンの隙間から指を這わせる。
人差し指が曇ったガラスに軌跡を描く。

「フィーリア」

「眠るなんて勿体なくて出来ないわ」

幾多の障害を乗り越えて夫婦となった二人は甘い新婚生活を堪能する間もなく忙殺されていた。
年若い王女の即位とそれに伴う混乱を好機と見たのか、隣国ゲルツェンが侵攻を開始したのだ。
しかしゲルツェンの目論見は外れ、世代交代が果たされた騎士団はよく統率されていた。
幸い国を挙げての戦争に発展することなく、数度の小競り合いの後、ゲルツェン側からの申し出で和睦がなった。
その後処理が振りかかったのだ。女王は連日他国の賓客を招いた舞踏会に、王配は名代として国内を飛び回り、
同じ夢を見ることさえままならなかった。

「わかった。夜明けまでこのままでいよう」

この計らいは侍女と執政官のもの。せめてひと時でも夫婦らしい時を過ごさせてやりたいという親心だ。
人目に触れさせず女王を連れ出し、偶々近くまで来ていたディトリッシュと引き合わせた。
明日には別々に務めを果たさなければならなかった。
しかし侍女たちが思い描いていた夫婦だけをするには彼らは若く、また離れての時間が長すぎた。
熱い抱擁と愛の言葉、そして別れの接吻。それだけならば夜が更けるまでには城へ戻ることができた。
抱きしめれば更に欲しくなるのは道理。言葉でなく直接刻まれたいと思うのは必然である。
馭者は揺れる馬車を見ないふりした。

このまま夜が明けなければいい。

月並みなことを考えられるのは幸せなことだ。ディトリッシュはフィーリアの指を口元に寄せる。
妻の細い指はガラス窓に触れた所為か冷えていた。絡め温めるとついと顔を上げた。

「こうして縛られてしまったこと後悔してる?」

闇の中で瞳が不安げに揺れていた。青と相俟って深海のような瞳に見えた。
後悔。ディトリッシュは自問する。そのようなこと考えたことも無い。
永劫とも思える孤独の中で生きていく事にこそ悔いていただろう。
フィーリアの冷たかった指が徐々に熱を帯びていく。
このか細い指が己を縛り付けていると言うのならば、この絡んだもう一つの手は何だというのだ。
背中に腕を回す。どちらともなく熱い息を洩らした。

「君と出会って後悔したことなど一度も無いよ。君と出会えない生など考えたくもない」

愛しているよ。
深海のような瞳が閉ざされる。フィーリアからの口づけはいつも甘い。
そのまま舌を這わせ味わい尽くす。背筋が粟立ち、思考が徐々に溶けていった。
ふやけた思考のまま妻に寂しいかと問う。フィーリアは潤んだ瞳を向ける。

「寂しい。全部。心も体も全部。あなたがいないと私はどうにかなってしまいそうよ」

もっと愛し合いたい。このまま朝が来なければよいのに。
望んだ以上の答えが得られ、ディトリッシュは満ち足りた思い出で瞳を閉じた。




戻る


inserted by FC2 system