希望のある世界



むかしむかし、あるところに女王様がいました。
女王様はたいそう美しい方でしたが、決して笑みを浮かべることはありませんでした。
女王様がまだお姫様だった時に、とても悲しいことがあったからだと云われていました。
それはさえておき、国の大臣たちは困り果てました。

女王様が笑わずに悲しい顔ばかりしていたら、
民が嘆き悲しむどころか、太陽までも悲しんで顔を出さなくなってしまう。
そうなれば国はえいえんの冬に閉ざされてしまうのです。
大臣は困りました。大臣はこまりました。だいじんはこまりました。

ある日大臣は言いました。
女王様を笑わせたものを女王様のむこにする。
国中のきしさまたちが女王様に会いに行きました。

それでも女王様はわらいませんでした。
どんなに見目麗しいきしさまでも、どんなに優しいことばで結婚を申し込まれても、
女王様はただ悲しげに俯くだけでした。
美しい宝石も、綺麗なドレスも女王様は見向きもしません。

大臣は困りました。大臣はこまりました。だいじんはこまりました。

ある日、城におとずれた魔法使いは言いました。
女王様の心は邪悪なやみのものの手によってばらばらにされてしまっています。
だから笑顔をわすれてしまったのです。
かわいそうな女王様。女王様はこの先もずっと笑うことができないでしょう。
かわいそうな女王様。かわいそうな女王さま。

大臣は言いました。どうすれば女王様の心を元に戻すことができるのか。
魔法使いは言いました。かわいそうな女王様。女王様はこの先もずっと笑うことができないでしょう。
大臣はいいました。どうすれば女王様のこころを元にもどすことができるのか。
魔法使いはいいました。かわいそうな女王さま。
大臣は言いました。やみのものを退治すればいいのか。
魔法使いは言いました。かわいそうな女王様。女王様はえいえんに笑わない。

えいえんにわらわない。

それから、女王様は立派にくにをおさめて、民からもとても慕われたということです。
ただし女王様の笑顔を見たものはだれもいなかったとさ。


―とある吟遊詩人の語る物語―





ダンスが好きなのかい、と彼は尋ねた。
初めて会った時もこうして二人で踊った。
ただし変わらないのは踊り手のみで、
奏でられるべき音楽も彼らの立場も何一つ同じなものははない。
美貌の青年の手を取る少女は王女であり、彼らを取り巻いていたのは祭りの喧騒だった。
今はただ月明かりの下で、狼の遠吠えとふくろうの鳴き声に合わせて踊るのみ。

好きよ、と彼女は答えた。あなたと踊れるならと続けた。
怜悧な女王と評判の彼女はあどけない笑みを浮かべる。
くるりと青年の手によって回る。何が面白かったのか少女は子供のようにはしゃいだ。
淑女ならば当たり前に習うこと。
ましてやこの可憐な女王には、星の数ほどの男がダンスを望んでいるだろう。
彼女は回った勢いのまま青年の胸に飛び込むと、甘えるように頬を摺り寄せた。
重ねられた手はいつの間にか互いの背中にまわっている。

かつて黒貴族と呼ばれていた青年は、その光景を不思議そうな面持ちで見守っていた。
こうも手放しで甘えられるという感覚は、途方もなく長く生きていた彼にとっては、
意外なほど新鮮なものであり、はるか昔に置き忘れてきたくすぐったさを思い出させるものだった。
おかしなものだった。一度はその胸に剣を突き立てたというのに、今同じ胸に甘えてきている。
無邪気さと狡猾さを同時に見た気分だった。

だが彼女を憎む気持ちは湧かず、それどころか嬉しさすら覚える自分に彼は呆れる。
複雑に絡み合った感情の全てを言葉にするのは不可能だった。
知らない感情と忘れてしまった感情が交互に押し寄せ、砂に書かれた手紙のように洗い流してしまう。
だから彼はさらさらとした彼女の髪を撫でてやる。おそらくそれは本能によってだった。
すると彼女は泣きそうな表情をして、胸に耳をぴたりと寄せる。

「生きているのね」

少女の呟きは、吸血鬼の鋭敏な聴覚にはっきりと捉えられていた。
少女はしっかりと耳を寄せて鼓動を聞く。
かつて己が手で止めたはずの心臓が静かに脈打っていることに、
言い表しようがないほどの幸福感を覚えた。

ほう、とふくろうが鳴いた。
何かに脅えるように翼をはばたかせ、何処かへと飛んでいく。
代わりに少女のすすり泣く声が響く。青年は顔を寄せて、涙の浮かぶ眦に舌を這わせた。
くすぐったげに身をよじらせるものの少女は何の抵抗もしなかった。
涙をすっかり舐め取ってしまうと、彼女の額に唇を落とす。
まるで悪夢に脅える幼子にするかのように。

「ありがとう。もう大丈夫」

悪夢は過ぎ去った。愛した男を自らの手で殺める夢を繰り返し見ていた日々は。
それだけならまだ堪えられたかもしれない。
己の醜悪な心と犯してしまった罪を見つめながら、刹那の玉座に君臨できたかもしれない。
しかし、悪夢の合間に見た愛おしげに抱きしめられる甘い夢が少女を苛んだ。
自分が何度、宿敵の腕の中で安らぎを覚えていたことか。
何度人としての生をかなぐり捨てたくなる衝動に駆られたことか。
嫌でも思い知らされてしまう。目の前の青年にはわからないだろう。
濡れた瞳が人のものではない赤い瞳と交錯する。先に逸らしたのは青年の方だった。

「君が泣いてしまうと、どうしてよいかわからなくなる」

まるで初めて恋を知った少年だ。少女は可笑しくなって戸惑った様子の青年に微笑む。
支配的で独善的で、あれほど女を惑わす手管に長けていた暴君が、何と可愛らしいことか。

「心のままに。あなたがしてくれることなら何でも」

「滅多なことを言うものではないよ。私を誰だと…いや、もういい。
今は君を愛する一人の男。君が望むならば、何度でも君の涙を拭おう」

「なら、私は――」

何をしよう。愛する人が望むのならば何だってしたい。
ドレスもあなたの好きなものに入れ替えるし、香水もあなたが選んだものを付けたい。
あなたが会いたいというならばすぐにでも会いに行きたい。
あなたの孤独をすべて埋めてしまいたい。あなたを否定するものは全て消してしまいたい。
愛している。あなたの全てを愛している。かつてのあなたも生まれ直してくれたあなたも全て。

「私を全部あげる。あなたに全部あげるわ」

そう言うと青年は泣き笑いに似た表情をした。





女王は冷たい声で今日の謁見の予定を聞いた。
顔色も冴えず、また玉座に着いてから一度も笑ったことのない女王は、体の不調を訴えることなく、
昨日と同じ献立が並ぶ朝食を静かに片付けていく。
侍従が今日の予定を言い終える。恐る恐ると云った様子で主に話しかけた。

「陛下。お顔の色が優れぬ様ですが医師をお呼びいたしましょうか」

「結構。時間の無駄です。それよりアルジャン公をお迎えする手筈は整っているのですか。
かの御仁は玉座の煌びやかさで目を曇らせる方ではありませんよ」

「――はっ! 肝に銘じております」

「では万事抜かりなく」

女王はナプキンで口を拭う。
近年に多発した飢饉の影響で王宮の食事は往時より質素になっている。
それでも女王は文句一つ零したことは無い。
長くターブルロンドの災いとなっていた黒貴族を滅ぼした英雄王は、公私ともに清廉な為人であった。
今、彼女を中心に時代は動いている。その大きすぎる功績に諸侯は頭を垂れ、民は畏敬の念を以て、
女王に服した。彼女の打ち出す改革は速やかに実行され、彼女の言葉は一日で国の端まで届いた。

「それからエレナを呼んでください」

侍従はその名前を心中で復唱する。先に新しく宮廷に上がった侍女の名前であった。
女王が即位し、多忙になった侍女頭の代わりとして身の回りの世話を行っていた。
侍女頭のエクレールならばまだしも、女王が一介の侍女に何用であろう。
そんな当然の疑問を頭の隅に追いやり、侍従は速やかに命を果たすべく御前を後にする。

しばらくして、緊張した面持ちの侍女が朝食の席に現れる。
いかにも宮廷に上がったばかりの垢抜けない風の素朴な少女であった。
かつての女王であれば彼女を安心させる為に、微笑みの一つでも投げかけただろう。
今の女王は表情を一片も変えぬまま、ただ侍女を見据えるばかりであった。

「あなたには私の身の回りの世話を命じています」

「…はい」

「あなたはよくやってくれています。ただし忠実ではないようですね」

はっとした表情で侍女は息を呑む。

「私のクローゼットには指一本触れるなとエクレールから聞いているはずです」

「それは――」

「言い訳は結構。満たされた好奇心と共にイシュメールを去りなさい」

蒼褪めた侍女を置いて女王は席を立った。
早足で執務室に向かう女王を侍従は小走りで後を追う。

「エクレールに新しい侍女を寄こしてと伝えておきなさい」

女王のクローゼットには触れてはならない。
既にその禁を破った者の何人もの侍女が暇を告げられた。
世にも珍しい財宝が隠されているだとか、恐ろしい化け物を飼っているだとか、様々な憶測を呼んでいる。
その中でもっとも信憑性のある噂が、黒貴族を滅ぼした武器が封じられているというものだった。
聖騎士フランツの双子の短剣。古来より暗殺に使われた武器である。
リベル公より譲られ、王家の秘法として大切に守られているのだという。
また黒貴族を滅ぼしたことにより、闇の者の報復を恐れて大切に保管しているのだという。

「あなたも知りたいのですか?
女のクローゼットに入っているものに、ドレス以外の何があるというのですか」

侍女を哀れんでいるのか、眉根を寄せて苦々しい表情をする侍従に女王は語りかける。

「では何故――」

「ささやかな願いです。閨でさえも覗かれることがある女王ですが、
何を犠牲にしても触れられたくはない部分があります。
聖騎士の使った武器もありませんし、化け物を飼っているわけでもありません。
あなたたちの期待に添えない女王は不満ですか?」

「いえ出過ぎたことを申しまして…」

「どうやら城中の者の教育を徹底する必要があるようですね。
これも私の不徳のなすところ。あなたたちの無調法は主である私の責です」

侍従の手により執務室の扉が開けられる。
主の到来を待ち構えていた執政官を初めとする側近たちが一様に礼をする。
怜悧な女王は彼らの報告を聞きながら、一日の予定を頭の中で反芻する。

「報告は以上です。それでは皆様方のお働きを期待します」

「はっ! 我らが騎士王の御為」

他の者が退出したのを確認すると、ヴィンフリートはさも何事でもないように切り出した。

「陛下、昨夜はどちらへ」

「ベルジュロネット公からの誘いを受けて、庭園を散歩しておりました」

「衛兵は誰の姿も見ていないと申しておりましたが」

「私に気を遣ってくれたのでしょう。殿方と夜に出歩くなど醜聞以外の何物でもないでしょうから」

既にベルジュロネットの領主は明朝にロザーンジュを発しており、確認する術は無い。
執政官はそれ以上の追及を諦めた。女王は極度に詮索を嫌う。
最早誰にも本心を吐露することは無い。過度の追及の後に待っているのは永遠の暇である。
密偵を放てば全て知れようが、それをすることは執政官の命を賭けねばならぬに等しかった。

「お顔の色が優れぬようですが、本日の謁見は中止いたしましょうか」

執政官は敢えて話題を変えた。だが変えられたようで何一つ変えられてはいなかった。
それを執政官は知る由もない。

「問題はありません。予定のとおりに」

「いえ、本日はお休みください。陛下はこの国の至宝。
陛下の御身に、万に一つのことがあってはならぬのですから」

「そうですね。休ませていただきます。後のことはよろしく頼みますよ」

「陛下、それと――フランツの双子の短剣は何処に保管されましたか」

「リベル公にお返しました。元はあの方のご先祖様のものですから」

だがそれは真実ではなかった。女王はちらりと執政官の様子を窺う。
既にフランツの双子の短剣は女王の手元にはないのは本当だ。
しかし、その居場所は誰にも知られていない。女王でさえも。
かの剣は女王にとって忌まわしきものを呼び起こす悪夢に他ならなかった。
だから、捨てた。正確には国外の商人に秘密裏に売り払ってしまった。
この地に置いておくことさえも厭うて。

「さようでございますか。
確かに父祖の宝を王家が横取りしたという風聞が立つのは不本意です。
リベル公には優秀な執政官がおられるようですし、問題は無いかと存じます」

疑われていることは百も承知であった。かの噂はヴィンフリートの耳にも入ってきているだろう。
王家の宿敵が、人の子全ての敵が復活したとの噂を。
それに対抗する為の方策をみすみす手放す女王に不満があるのかもしれない。
女王は軽く咳払いする。微かな不愉快さを込めてヴィンフリートを見た。

「まだ何か」

「…いいえ。どうか、ご自愛ください」

「わかっています。
私がいなくなればターブルロンドは今度こそ武器を取り合っての内戦になります。
全ての民と偉大なる騎士王の為にも、私は命を賭して玉座を守りましょう」

「ご立派なお覚悟です。陛下、如何様にも私をお使いください。
少しでも陛下のお心が安んじられるよう、身を粉にして働く所存でございます」

「心遣いは結構です。あなたは執政官。政務のことだけを考えていればよいのですから」

「…ですが」

「暁のオルフェリアが、何故塔の中で生きていけたのかわかりますか?」

唐突な質問に執政官は面を喰らった。考える暇すら与えず、女王は執政官に告げる。

「希望があったからです」

希望、ヴィンフリートは復唱する。女王が何を言わんとしているのか理解できなかった。
そして女王は微笑を浮かべる。執政官は驚いた。即位より一度も笑わなかった氷の女王が、
目の前で美しい微笑をたたえたのだから。
しかし、彼の知っているあどけない年相応の笑みからは随分とかけ離れてはいた。
どこか老成し病みつかれたような――そう、それこそ暁のオルフェリアのような悲劇の佳人の笑み。
ヴィンフリートは言葉を失う。

「私から希望を奪わないでね。ヴィンフリート」

かつてのように親しげに呼びかけ、再び女王は怜悧な表情に戻った。



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